『その死者の名は』エリザベス・フェラーズ【感想】一冊でわかるすごいシリーズやん

Give a Corpse a Bad Name

1940年発表 トビー&ジョージ1 中村有希訳 創元推理文庫発行

 

 初フェラーズです。ミステリ愛好家からの評判もかなり良いですよねえ。自然と期待値が上がります。

 かたいなかのチョービー村で起こった珍事件が物語の中心です。

深夜、道路の真ん中に泥酔して寝ころんでいた人間を轢いてしまったと警察署に駆け込んできた未亡人。警察は捜査を始めるが、その人間が誰で、何のためにチョービー村に来たのか、どこに行こうとしていたのか、なぜ酔っぱらっていたのかは皆目見当もつかなかった。噂話の宝庫である酒場に居合わせた元新聞記者のトビーと相棒のジョージは興味本位で珍事件に首を突っ込んでいく。

 

 まずは、探偵コンビの不思議な魅力があふれ出します。頭脳明晰で行動派の元新聞記者トビー・ダイクと、警察恐怖症でぽっちゃり丸顔のジョージと名乗る男。一見アンバランスな二人ですが、それぞれの得意分野を生かして、関係者に取り入ったり、人知れず奸計を巡らしたりと、”二人だからこそ”通用する推理手法と、探偵術が特徴的です。

 

 警察からすると、捜査の妨害をしかねないブン屋と得体のしれない男、というコンビなのにもかかわらず、するすると警戒の網をかきわけて、事件の中心に近づいてしまう、人たらしな探偵として、なかなかミステリ史にも類を見ない特異な存在です。特にジョージは、身にまとう雰囲気や言葉の端々に覗くピリッとした毒気のある一言、呆けたふりして核心をつく賢者のような佇まいが癖になります。

 

 中心となるミステリについては、事件の全容/全体像が謎の中心となっており、急激な物語のアップダウンがあるわけでもなく、牧歌的な田舎町の雰囲気そのまま、しっとりと流れます。

 殺人を犯しそうな人物がそれなりに登場し、裏で暗躍する人間の影もちらつきます。また、決定的な物的証拠は、次々に手が加えられ、関係者の証言も二転三転して、事件の全体像を暈すことで、謎の不可思議性や奥行きはぐんと深まります。

 

 ただ、犯人を指し示す証拠があまりにお粗末なため、犯人当ては簡単♪簡単♪………と思ったところからが本書のスタート。

 エリザベス・フェラーズが本書の中で画策した真のトリックと、チョービー村の長閑な空気に隠された驚愕のミステリが待っています。ここに冒頭の探偵のキャラクターを加味した強烈な推理が、強い説得力を伴ってぶん殴ってくるのがたまりません。

 

 デビュー作でこの出来ですから、ほかのシリーズ作品の期待もぐんぐん上がります。

 個性的な登場人物たちによる”含み”まくりの会話の応酬があったり、村の雰囲気のまんまメリハリの利いた展開はないので、ややゆったりとした海外小説でも読める読者なら十分楽しめる名作だと思います。

ネタバレを飛ばす

 

 

以下超ネタバレ

《謎探偵の推理過程》

本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本書を読んでからお読みください。

 

 解決への初めの分岐点は、ミルン夫人がただ事故に巻き込まれたかどうか。

 (a)故意に男を轢いたのか、それとも(b)ただの事故だったのか。

 故意ならば、(a')ミルン夫人もしくは関係する人物に男への殺害の動機があったかどうかが論点になる。

 事故ならば、(b')本当にただの事故(c)真犯人による事故の画策、が考えられる。

 ただ、酔っぱらいを道に放置していて、本当に確実にその人物を死に至らしめることは可能だろうか。例えば泥酔状態の人間を、橋から突き落としても同じ効果が得られるし、車に轢かれるとも限らないし、仮に轢かれても確実な死は望めない。よって(c)の可能性は少ないだろう。

 (b')はミステリ的に無いか。

 ならば消去法で(a)ミルン夫人が故意に轢いた線で進めていこう。

 

 ミルン夫人のような世知に長けた経験豊富な女性なら、事故を装って自身に不利益な人間を殺そうとしても不思議ではない。殺人に必要な度胸も演技力も頭脳もすべてそろっているように思える。

 ただ、ミルン夫人のキャラクターから過去に執着があるようには思えないこと、彼女を怪しく見せる手がかり(酒壜・スーツケース)が集まりすぎるところが妙に怪しい。

 彼女が殺したと見せかけようとする真犯人の計画だろうか。そもそも”事故に見せかけて”というのが、殺害方法としても手法としても弱いが………。

 

ミルン夫人以外の人物から推理すると、まずはミルン夫人に思いを寄せている風のマクスウェル少佐だが、これは動機も王道過ぎて怪しくない。

 娘のダフネと恋人エイドリアン・ローズはどうだろうか。

 ミルン夫人の遺産目当てと考えれば一定納得はできるし、エイドリアンの軽薄なキャラクターやダフネのトビーに対するロマンスの視線もミスディレクションにはうまい具合に作用している。

 

 終盤、エイドリアンとミルン夫人の意味ありげな応酬や、エイドリアンのコテージでの雑誌のやり取りなどから、彼らのどちらかが犯人であろう雰囲気は感じる。どっちだ?

 

推理

エイドリアン・ローズ(おどおどしてた)

 

真相

エイドリアン・ローズ(ヘンリー・ライマーの事故死に関与した。その事故を逆手にダフネと結婚し、遺産を奪うためミルン夫人の逮捕≒死に誘導した)

ミルン夫人(エイドリアン・ローズの自殺を教唆。娘ダフネを守るため)

 

 最終章はさすがにしびれました。まさかありきたりな凸凹コンビものだと思っていたのに、まさか探偵役にも大逆転の仕掛けが施されていたとは。

 また、ミルン夫人自身の事件への関与の動機付け、とくにダフネの真の年齢を隠すため、そして自身のような結婚生活を送らせないようにという母親の愛から出たエイドリアンとの対立というプロットは抜群にうまいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

    ネタバレ終わり

 この一作でわかるんですが、めちゃくちゃいいシリーズですよねこれ。たった5作しかないなんて驚きです。これから1940年代を代表する黄金期のミステリをどんどん楽しみたいと思います。

『災厄の町』エラリー・クイーン【感想】逆転の構図が光る名作

CALAMITY TOWN

1942年発表 エラリー・クイーン 越前敏弥訳 ハヤカワ文庫発行

前作『ドラゴンの歯

次作『靴に住む老婆』

 

 

ネタバレなし感想

 ついにライツヴィルにやってまいりました。ライツヴィルとはニューヨークの北方に位置するとされる架空の町で、エラリーは新作執筆のためにニューヨークを離れ、この町へやってきます。

 町一番の旧家ライト家が売りに出した物件を借りたエラリーですが、その家は新婚夫婦の奇妙な離別や、買い手の怪死のせいで“災厄の家”と呼ばれる曰く付きの物件でした。名家の放蕩娘や奇妙な三角関係に振り回されながらも、なんとか三週間を乗り切ったころ、災厄の元凶が舞い戻ってきて、穏やかに見えたライツヴィルの景色が一変します。

 

 題材はドロドロしていて重たいし、全員が奥歯にものが挟まったような言い回ししかしないので、歯がゆさしかなくイライラはするのですが、それら暗雲をぱっと晴らす解決編が用意されているので、それなりに読後感は良いです。

 ただ、登場人物の人間的な“弱さ”を前提条件としたミステリなので、一人でも強い人間がいれば(探偵エラリーも例外ではありません)という、苛立ちともどかしさが常につきまといます。エラリーがある人物について勇気があると形容するシーンがあるのですが、ここらへんにぐっとくるかどうかで物語の印象/評価がガラッと変わってしまうのではないでしょうか。

 

 トリックやロジックによる推理ではなく人間関係を紐解くことに長けた人ならば、一読すれば真相がわかってしまう難易度だとは思いますが、端役の使い方や、彼らに忍ばされた謎の明かし方など、作者の巧者な手腕を堪能できる一冊には違いありません。

 また、法の網目を掻い潜り法廷闘争をかき乱す証人や、予想外の犯人を指名するエラリーの突飛なロジックが描かれる法廷シーンも見どころの一つになっています。

 

 事件そのものがやや定型的だったり、ロマンスが推理に邪魔だったりと気になる点がなくはないんですが、まあ、光の当て方で事件の姿や登場人物の印象が180度変わる逆転の構図(今思いついた)が素晴らしいので、文句はありません。

 クイーン初期の整った数学的な美しさではなく、全体を眺めて感じる絵画的な美しさへと転換した中期の名作として、多くの人に―特に人間ドラマを巧みにあやつったクリスティの愛読者の皆さんに―読んで欲しいミステリでした。

 

ネタバレを飛ばす

 

 

 

 

 

以下超ネタバレ

《謎探偵の推理過程》

本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本作を読んでからお読みください。

 

 婚約者を捨てた男が3年をという月日を経て戻ってくる。異様な状況だ。3年前の出来事か、3年間の出来事がどちらかが事件の要因だろう。

 

 ジムが3年を掛けてノーラの毒殺を計画したとは考えにくい。その計画を記した(未来への)手紙が残っている、という状況も信じがたい。

 考えられるのは、3年間の間にジムはノーラ以外の女性と結婚し、その妻が死んだということ。

 そして、ジムを追ってライツヴィルにきたローズマリー・ヘイトはジムの姉などではなく、死んだと思われていた妻に違いない。

 ジムは、重婚の罪を脅迫され、妻ヘイト夫人にゆすられており、だからこそ偽ローズマリーは殺された。

 

 となると、犯人は二人しかいない。ジムかノーラか。ジムのことはエラリーが見張っており、その後グラスに触れたのはノーラしかいない。ヒ素もジムが購入したのならば、ノーラは容易に入手できただろう。

 ただ気になるのは、ジムはノーラだと気づいていながら、なぜ真相を告げないのか。知らずに重婚の罪を追わせてしまったノーラへの罪滅ぼしなのか。そして、ノーラは自分で殺しておきながら、なぜジムの無実を訴えるのか。

 なにか心につっかえるものがあるが何かはわからない。

とりあえず犯人あては終了

 

推理

ノーラ・ヘイト(ライト)

 

真相

ノーラの目的はローズマリーと夫ジムの死だった。彼女は自身の傷つけたジムにローズマリー殺し罪を被せ二人に復讐をしたのだった。ジムが自分を庇うことも全て計算ずくだった。

 

 

 いやあ、なぜ気づかないんだって感じだが、恐ろしい悲劇だった。

 今回のネタは、「犯人あて」に限って言えば全然難易度は高くなく、むしろ、真犯人とジムとの関係性や言動の謎を解明するのが中核だった。そして、無実と知るジムを救おうとする本物の姉ローズマリーの変装や、真相に気付いてなお物語を静観するエラリーの不可思議な行動など、どうすることもできない不条理な状況に抗おうとする人間たちのドラマを描くミステリなのだ。

 エラリーのロマンスの終着点が、パットとカートの選択した決断だと考えれば、ロマンス描写も決して不必要なものではなかったと言える。

 

 

 

    ネタバレ終わり

 本書は、エラリー・クイーンシリーズを始め多くのミステリの翻訳を手掛ける越前敏弥氏の手による新訳版。旧訳で伝えきれない細かな部分を修正したもののようです。旧訳版を読んでいないため、確たることは言えませんが、あとがきを見る限り、原作者の意図を忠実に伝えるための努力の結晶が本書のようですので、これから読む方は、もちろんこの新訳版をお勧めします。

では!

 

『不可能犯罪捜査課・カー短編全集1』ジョン・ディクスン・カー【感想】小粒がいっぱいで普通に辛い

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THE DEPARTMENT OF QUEER COMPLAINTS

1940年発表 マーチ大佐 宇野利泰訳 創元推理文庫発行

 

 巨匠カーの短編は初めて。長編にある重奏的なトリック、怪奇現象の波状攻撃はありません。しかし、山椒は小粒でもぴりりと辛いと言いますか、短い物語の中に輪郭のくっきりしたピリッと刺激的な仕掛けやトリックがあるのもまた真実です。

 スコットランドヤードにある奇怪な事件専門の部署・D3課の課長マーチ大佐が活躍する6編に加え、歴史ものや超自然を扱ったものまでバリエーションに富んだ10編が収められています。

 

各話感想

新透明人間 The New Invisible Man

 宙に浮いた手袋が老人を射殺した!?これでもかと不可思議な現象を全面に押し出した作品です。トリックは明かされてみれば平易なんですが、痛快なオチにいたるプロットに構成美が見える一作です。

 

 

空中の足跡 The Footprint in the Sky

 夢現の人物による記憶にはない犯罪をテーマにした作品です。同じようなテーマの作品はいくつかありますが、本作では(一応)ちゃんとしたトリックで別の解答が用意されています。質は……まあどっちでもいいです。

 

ホット・マネー Hot Money

 ポーの『盗まれた手紙』系列の一編。その手の作品の中ではもしかすると最低ランクの出来なのではないでしょうか。まあ、ここは文化の違いという点で色眼鏡で見てあげてもいいんですが。この作品を認めるとなってくると、なんでもアリになってくるんでね。

 

楽屋の死 Death in the Dressing-Room

 アリバイトリックに注力された殺人事件がテーマ。この系列の作品はぜひ映像化してもらって実行可能か試してもらいたいですね。まあ、ありきたりな作品からは抜け出せないので、もう一ひねりあっても良かったかなとは思います。

 

銀色のカーテン The Silver Curtain

 本書ベストの作品です。カジノで磨ってしまった青年が、怪しげな小遣い稼ぎに巻き込まれ、破滅へと向かっていくお話。降りしきる雨、異国の裏町、銀の短剣など想像を膨らませる鮮やかな叙景描写が素晴らしく、その全てを効果的に活用した珠玉のトリックもまた一級品です。

 

暁の出来事 Error at Daybreak

 長編でみられるカー得意のドタバタ劇が短編にぎゅぎゅっと凝縮されたトリッキーな一編。原因不明の死と死体消失という八方ふさがりの事件ですが、マーチ大佐の機転によって事件は思わぬ展開を迎えます。話の展開がミステリ通好みですが、トリックに関してはちょっとお粗末なところも。

 

もう一つの絞刑吏 The Orther Hangman

 物語は、19世紀末の死刑宣告を受けた極悪人を巡る怪事件です。強烈なインパクトを残すオチが見事なので、物語の筋は省略しますが、法の網を掻い潜る完全犯罪を堪能できるはずです。後半のマーチ大佐ものでない作品群では本書がベスト。

 

二つの死 New Murders of for Old

 静養のために船旅に出た実業家の青年が新聞で見たニュースは、なんと自分が自殺したというものだった。急いでわが家へと帰った男が見たものとは……。

 第三者の語り手によって俯瞰的に語られる物語の雰囲気が見事です。ネタはありきたりでも、怪奇の影を落としながら、不合理を合理的に描写していくカーの卓抜した手技が素晴らしいと思います。リドルストーリーにも読める遊び心もなかなか秀逸です。

 

目に見えぬ凶器 Persons or Things Unknown

 古典的な名トリックが光る作品です。語られるのは16世紀に起きた怪事件。十三カ所もの創傷を負った死体とその部屋に居合わせた最有力容疑者。しかしながら容疑者の体からも部屋からも犯行の凶器は見つからなかった。

 トリックについてはやや難ありのような気もしますが、物事があるべきところに落ち着く一種の安心感があるのも事実で、怪談噺のオチに結び付けるカーのユーモアも光る秀作です。

 

めくら頭巾 Blind Man’s Hood

 カーは、最後の最後にどえらいミステリを持ってきてくれました。もう雰囲気が見事なので、ぜひなんの事前情報もなしに読んでほしいです。19世紀のクリスマスのある夜が舞台になっているので、時期を合わせて読むと怖さが倍増すること間違いなし。ただ、恐いだけで終わらせることなく、緩急をつけたオチが用意されているので、ホラーが苦手な人でもちゃんと楽しめるはずです。

 

 

おわりに

 エラリー・クイーンの『冒険』『新冒険』みたいに、完璧なトリックと完璧なロジックがあるわけではないんですが、エンターテインメントとして、読者の感情を揺さぶり、楽しませる点では、エラリーやクリスティでも敵わないテクニックがカーにはあります。

 特に、恐怖心を煽る部分と、恐さと紙一重にある「なんだ、良かった」という安心感を同時に提供してくれるプロットはさすがです。

では!

 

 



『虎の牙』モーリス・ルブラン【感想】細密フィルターを通せば面白い

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Les Dents Du Tigle

1921年発表 アルセーヌ・ルパン9 井上勇訳 創元推理文庫発行

前作『(三十)棺桶島

次作『八点鐘』

 

 本作でアルセーヌ・ルパンシリーズに挑もうとする読者はほぼいないでしょうが、少なくとも『813』は読んでおいた方が楽しめると思います。

 

 物語の骨子は、大富豪の二億フランもの遺産を巡る謀略です。ルパンは予期せずその罠の中に巻き込まれてしまう訳ですが、どうもいつものキレというか鮮やかさが失われているように思えます。もちろん、策謀した真犯人に関するサプライズや、犯人を巧みに隠すトリックとミスディレクションはあります。ルパンの忠義な支持者たちや好敵手、ルパンものに必須のロマンスなどぎゅぎゅっと要素だけは詰まっているはずなんですが……。

 

 ルパンが策を巡らせれば巡らせるほど、どんどん深みにはまっていって抜け出せなくなり、とうとうルパン史上最大の窮地に立たされるなど、物語自体のリーダビリティの高さはそこそこあると思います。地を駆け、空を飛ぶ冒険劇も見どころで、舞台を鮮やかに転換させる手腕も見事です。

 

 それでもやっぱりモヤモヤが止まらないのは第二部「フロランスの秘密」中に起こるイベントの重さというか受け入れ難さが原因です。

 ルパンシリーズでは差別がまあ当たり前のように描写されています。もちろん時代が時代なので、こちら側(読者)にしっかりフィルターをかけさえすれば、全然楽しく読むことができるのですが、本書はどうも体が受け付けませんでした。正面から差別という事象の残酷さを突きつけられた気がして正視できなかった、というのが正直なところでしょうか。

 例えば、前作に当たる『(三十)棺桶島』や『オルヌカン城の秘密』『金三角』を見ればもっと明らかなのですが、作中では自国(フランス)における黒人と、敵国の黒人への扱いの差異や、ドイツ人や敵対した国の人種に対する当たりの強さがこれでもかと強調されています。白人が世界に及ぼした文化的・軍事的な影響力の強さがそのまま文字となって滲み出てきて、これが当時のリアルだったんだ、人々の認識の平均値だったんだと突きつけられる辛さもあります。

 それら人種差別に加えて、本作では文化/文明による差別が色濃く出た作品でした。僻地の/未開の地で、自分たちの文化水準(というのも主観ですが)に達していない野蛮な民族(という思い込み)に対する、同情や嫌悪、侮蔑の感情というのがオブラートに包まれず飛び出します。でもこれって少なからず自分の心の中にも巣食っている感情ではないかと思うのです。可哀想に思う同情心がどんどん煮詰まって後に残るのが、自分たちの方が優れているという歪んだ優生思想だとすると、日本に生まれてよかったという安心感すら化学変化してしまう危険性もあるのではないでしょうか。

 あと敵国に対する当時の感情って、今の日本と近隣諸国の間にも燻っているわけじゃないですか。昔こんなことをされた。あの国は野蛮だから。お互いがそう思い合っているような歴史があって、それを端に発した悪感情がふとした時に顕在化して人目につくケースが身の周りでもよくあります。人の振り見て我が振り直せ、じゃないですけど、自分の中に、アルセーヌ・ルパンと同じ歪んだ醜いところもあると認識できるのも、このシリーズを読む意義なのかもしれません。

 あ、もしかして、タイトル「虎の牙」って自分たちの中にある醜い攻撃性のことなんじゃないですか(違う)。

では。

 

『緑は危険』クリスチアナ・ブランド【感想】作者の最高傑作、は伊達じゃない

Green for Danger

1944年 コックリル警部2 中村保男訳 ハヤカワ文庫発行

前作『切られた首』

次作『自宅にて急逝』

 

 完全にミスった。いつもシリーズ作品は、第一作から読むことを習慣にしているのに、間違って2作目から読んでしまった。

 まあ、いいか、めちゃくちゃ面白かったし。

 

ネタバレなし感想

 本作の舞台は第二次世界大戦下の病院。第一章から、ただの登場人物紹介に甘んじることなく、読者を煽る一文が光っている。郵便配達夫の届ける郵便と交差して、関係者たちの過去の重要なシーンが写真のように切り取られていくのも面白い構成。

 冒頭でクセと影がある関係者たちを紹介し、その中に、事件の伏線や手掛かりになり得る描写を挿入するのは、処女作『ハイヒールの死』でも見られるようにブランドお得意の手法らしい。

 

 落ち着きはらった医療関係者たちとは裏腹に、常に付きまとう空襲による無慈悲な死、次々に運び込まれる負傷者たち、治療と手術、看護の繰り返しなどに起因する不安や不満がそこはかとなく伝わってくる。戦時下の別の側面を見せてくれるブランドの筆致は素晴らしい。

 さらに、ボルテージが上がってくるのは、そんな死の嵐が吹き荒れる外界と隔絶され、安全色の緑一色に包まれた手術室に入った途端、背筋が凍るような恐怖と緊迫感が感じられるから。それは、ただの細かい情景描写のおかげではない。手術室にある一つひとつの小道具から、死の気配が漂ってくるかのような絶妙なテクニックのおかげだ。

 

 物語の本流は、ドロドロとした医師と看護師たちのロマンスの濁流で、関係者たちの視線や会話に集中してしまうが、殺人事件の発端となる死が不意を突いてやってくるので、その時点で一度ブランドにぶん殴られるのを感じる。

 国内の某有名医療ミステリの原型にも見える第一の事件のプロットも見どころで、不可能性・不可思議性の大きさと高い緊張感が奏功し、どんどん物語のテンポが上がっていく。

 

 そして、さらに恐怖のレベルを一段上げるのが第二の事件。第一の事件でさえ、全く見当のつかない謎なのに、第二の事件ではさらに不可解な状況で事件が起きている。

 第一の事件では、事件性があるのかないのか不明で、物腰も柔らかかったコックリル警部だったが、第二の事件でその背後にある悪意をしっかりと感じ取る。

 

 コックリル警部の熱心で粘り強い捜査が始まると、関係者たちの抱える闇や秘密が少しずつ明らかとなり、事件の輪郭が朧げに見えてくる。なぜあんな状況で、なぜ死体に不可解な痕跡が、そもそもなぜ事件が起きたのか。舞台は再び始まりの場所へ。全ての答えが出される、空気が張り詰めた解決編へとなだれ込む。

 

 ミスディレクションは大味だが、遊び心と好演出がこれでもかと詰まった解決編はまさに圧巻。事件のその後を描く悲哀に満ちたオチも見事で、クリスティ・クイーン・カーを受け継ぐといわれるブランドの実力がいかんなく発揮された傑作だ。

 

ネタバレを飛ばす

 

 

以下超ネタバレ

《謎探偵の推理過程》

本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本書を読んでからお読みください。

 

 

 冒頭の登場人物紹介から翻弄される。

 この中の7人のうち一人が犯人だと!?彼らの間に何が起こるのだろうか。

 序盤で感じられるのは、オーソドックスな痴情の縺れ。イーデンを中心とした色恋沙汰だろう。

 もう一つの軸は、ムーンバーンズの会話の中にあった医療ミスの噂と息子を殺された老医師のエピソード。

 

 第一の事件が起きるが、なんと死んだのは冒頭で登場した郵便配達夫ヒギンズ。手紙の配達中になにかに気づいた、ということだろうか。

 ヒギンズの言葉「どこで俺はあの声を聞いたのか」からわかるのは、ヒギンズと関係者たち7人の過去の接点が事件の鍵だ、ということ。

 

 ヒギンズの死は、安直にいけば麻酔医バーンズ博士のミスだが、彼の過去の噂とヒギンズの接点は今のところ見つからない。一番疑われる麻酔医が麻酔を用いて殺害するのも合理的ではない。

 トリックはシンプルにボンベに細工されたと考えるのが普通だが、事件後も他の患者に使用されたのであれば、入れ替わった可能性は少ないか。

 

 シスター・ベーツとバーンズのひと悶着はさらなる波乱を予感させる。

 案の定、何かに気づいたベーツは何者かによって殺されてしまう。理由はもちろん、ヒギンズ殺害の証拠に気づいてしまったからだろう。

 ここで魅力的な謎が提示される。

「なぜ二度も刺されたのか」

 これもシンプルに考えると、死体に残った一度目の痕跡を隠そうとしたため、もしくは手術衣そのものに残された何らかの痕跡を隠そうとしたのだろう。まあ、何かはわからないが。関係者の中に怪我をしている(血痕が残る)人物もいないし、身体的な特徴がある人もいない。

 

 フレデリカの殺害未遂はさらに混迷する。なんとなく本事件の画にまったく似合わない事件に見える。もしかしてフレデリカの自作自演か?

 消えたモルヒネは……たぶん最後に犯人が自分に使うんだろうな。

 

推理

ムーン少佐

息子が殺された復讐。だが、コックリル警部を呼んだのはムーン少佐だ。なぜか、どうやってかはわからない。作中で示唆されているように、ヒギンズの死因は、たぶん酸素欠乏。なんやかんやで手術中に酸素が供給されなくなったに違いない。例えば物理的に口が塞がれていたとか。

ベーツがムーン少佐に犯人を知っていると漏らしたり、彼のキャラクター的にも犯人から遠いのはわかっているが、彼以外の犯人が思い浮かばない。

 

真相

エスター・サンソン

ヒギンズは、母の救出をせず見殺しにした(故意ではなく現実的に不可能だった)元救助隊員だった。母を置いて出て行った後悔や葛藤から、母を殺したという妄執に囚われ、ヒギンズを殺し、彼の部下だったウィリアムをも殺そうとする。ヒギンズの殺害トリックは二酸化炭素のボトル(緑)を酸素のボトル(黒)に塗り替えるもの。ヒギンズの正体を知り、事前にボトルを塗り替える準備ができたのは、エスターのみ、という論理。ベーツはヒギンズ殺しの証拠に気づかれたため殺害。

 

 サプライズの大きさはもちろん、愛するエスターを救おうとしたムーン少佐とその結末(さらにはムーン少佐のその後)まで、鮮やかな演出が記憶に残るが、動機の部分でもう少し手がかりが欲しかった、というのが正直なところ。

 エスターの母親の死が誰にも過失がなかったのが原因だろうが、救助隊が間に合わなかったという描写は合っても良かったのではないか(見つけられなかった)

 

 

 

    ネタバレ終わり

 クリスチアナ・ブランドの最高傑作と呼び声高い『緑は危険』は、その名に恥じぬ傑作長編。登場人物たちの過去・現在・未来をまっすぐ線で繋いで、その中で生じた重層的な謎を綺麗に畳む技量の高さに圧倒さた。次も(というか前作も)期待できる。

では。

『怪盗レトン』ジョルジュ・シムノン【感想】想像していたよりもドロッとせず、キリっとしてる

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Pietre le Letton

1929年発表 メグレ警部1 稲葉明雄訳 角川文庫発行

次作『死んだギャレ氏』

 

 

 メグレ警部と言えば、名探偵コナンの目暮警部の名前の由来になった名探偵です。

 その記念すべき1作目が本作『怪盗レトン』なのですが、本書に出会うのには本当に苦労しました。電子書籍ならあるんですが、どうも出版社に抵抗がありましてね。

その話は置いといて、ようやく今年、ある程度適正な値段で本書と出会えましたので、これからは、メグレシリーズもちょくちょく読んでいきたいと思います。と言いつつ第二作『死んだギャレ氏』の入手難易度も凶悪です。各出版社の皆様復刊をよろしくお願いいたします。

 

で本書の感想なんですが、シムノン自身が、あくまで自分を”純文学の作家”だと思っていたという話どおり、オーソドックスな推理小説とは一線を画す独特の文体と空気感が見事です。

なんか、こういうかっちょイイ空気をもつ作品を読むと、いっつも読書メーターの感想が、その熱に当てられておかしくなっちゃうんで、一応晒しときます。

1931年発表のメグレ警部シリーズ第1作。国際的犯罪組織の首領ピートル・ル・レトンとメグレ警部の対決が骨子。人間の持つ豊かな感情を全て曝け出して物語を紡ぐシムノンの怪腕によって、魅力的な犯罪者と天才的な探偵という正統派の探偵小説とはまるっきり違う作品になっている。人間とはかくも豊かで、愚かで、愛しく、馬鹿馬鹿しい生き物か。ミステリ的なサプライズはほぼ無いが、厳しくも情緒ある描写、探偵と犯人のノスタルジックな雰囲気さえ感じさせる対決、そこからガラッと一変する温かいラストが、全てを上回る充足感を与えてくれる。

なにが「馬鹿馬鹿しい生き物か」なんでしょうか。

 

さて、冒頭のメグレの元に届いた電報のシーンから、大人の雰囲気が爆発しています。なんか、タイプライターのカタカタという乾いた音が聞こえてきそうな(電報だっての)レトロな空気です。メグレ警部の一つひとつの動きだけで絵になるというか、重さを感じるのはやはりシムノンの天才的な筆致と、訳者稲葉明雄氏の名翻訳のおかげでしょう。

物語の方はシンプルで、メグレ警視が、国際刑事警察委員会(インターポールのようなもの?)からの情報を元に、国際的犯罪組織のボスであるレトンを追い詰めるシーンから始まります。メグレは、レトンの人相書きを頭に叩き込み、レトンが乗っていると思われる列車の停車駅で彼を待ちますが、レトンの身体的特徴にぴったり符合する男を見つけた矢先、メグレの足を止める事件が起こってしまいます。

 

初めてのシムノン作品ということもあって、どのような楽しみ方をすればよいか、その感覚を掴むのが難しかったです。モーリス・ルブランのルパンシリーズのように怪盗とメグレ警部の追いかけっこが中心というわけではなく、メインの殺人事件が物語の前提を破壊してしまうことで一気に物語の奥行きと厚さが増すのがわかります。

レトンと思しき人物を追跡するにつれ、メグレは様々な痕跡に出会います。そして痕跡を辿って、フランス北西部の町フェカン、暗く長い露地が続くパリの裏町を冒険する一つ一つの情景が、簡潔かつ流麗にテンポよく描かれています。しっかり調べたわけではないんですが、体感的に短文の方が多くて、ダラダラとした冗長な描写が少ないのでめっちゃ読みやすいんですよね。なのに、メグレに降りかかる凶事と、悲劇に涙することも許されないメグレの静かな怒りの焔がストーリー全体にどっしりと重たくのしかかります。

パリの裏町に住む激情的で意思堅固なユダヤ人の女アンナ・ゴルスキン、そして港町フェカンで二人の子どもを守りながら船乗りである父親の帰りを待つスワン夫人、この一見交差することのないような二人の女性を繋ぐ、レトンという極悪人そして彼に瓜二つの男。彼らの複雑に絡み合った人生の糸を解す解決編は、謎の解決としては小粒ながら、登場人物に向き合うメグレの造形が冴えわたっており勢いもピークを迎えます。特に、どっしりと椅子に腰を据え、ラム酒の壜を挟んで犯人と対面するシーンは、紋切り型のミステリを吹き飛ばしてしまう衝撃と破壊力があります。

同じようなミステリを探してみたんですけど、今まで自分が出会ったことのないミステリのようです。フランスのミステリってもっとドロッとしていたり、女性の扱いになんかモヤモヤすることが多かったのですが、本書はメグレの視点とメグレの見せ方がかっこよくて没入度も半端なかったです。

では!

『フレンチ警部の多忙な休暇』F.W.クロフツ【感想】警察24時が先か、クロフツが先か

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FATAL VENTURE

Fatal=致命的な

Venture=(金銭的にリスクの高いbusiness)投機、事業

ですから、『死をまねく事業』というところでしょうか

1939年発表 フレンチ警部19 中村能三訳 創元推理文庫発行

前作『フレンチ警部と毒蛇の謎

次作『黄金の灰』

 

 

 

 クロフツお馴染みの手法である2部構成が効果的に用いられた長編。1部では事件発生までの背景や設定が描かれ、2部でフレンチ警部の捜査が始まる、いたってオーソドックスな展開景なのだが、+αの一捻りが加えられているのが上手い。というか、そもそもオーソドックスというのはクロフツ作品の中での話で、海外古典ミステリでここまで堅実な2部構成になっているのはクロフツ以外にあまりない。被害者を始めとした関係者たちの人生と冒険を1部で堪能し、2部でフレンチ警部の確実な推理を楽しむ。楽しみ方さえ知っていれば、クロフツ作品は何倍も面白くなる。

 

 いつもどおり、1部で語られるビジネスアイデアとその実行方法がシンプルに面白い。よくもまあ色んなアイデアが思いつくものだと、クロフツの創作能力の高さに改めて感動する。

1部の主人公は旅行会社の添乗員ハリー・モリソン。団体旅行者の添乗中に出会った紳士ブリストウから豪華客船を用いた真新しい旅行計画を打ち明けられたモリソンは、スポンサーを求め旅行好きの大富豪ストット氏を紹介した。かくして、人生の成功へと歩みを始めたモリソンだったが、航海の最中、彼の人生を変えるような大事件が起きてしまう。

 

 前半の大半は、モリソンとブリストウがビジネスを軌道に乗せるまでを事細かに描写していく。どこでどう経費を削ることができるか、収支のバランスはどうか、恒常的に利益を生み出すことができるか、法律上の問題や障害はないか。それこそ、世の中の働く人々が何か新しいものを生み出そうとするときにぶつかる壁が全て本書に描かれていると言っても良い。事件(とその背景)にリアリティを持たせる、これだけで自然と物語が勢いをつけて転がり出し、人間を動かし、凶悪事件まで引き起こしてしまうのだから面白い。

 

 本書のフレンチ警部はある密命を帯びて捜査にとりかかる。しかも、そこにフレンチ夫人も登場するというから驚きだ。フレンチ夫人の一風変わった考え方と進言は、フレンチ警部の頭の中に新しい風を吹かし、事件に新たな側面から光を当てることになる。

 論理的な解決のためには、ここから多少強引に想像を飛躍させ、穴だらけの物証を探す作業が必要だが、怪しい記述や犯人の手抜かりはあからさまに描かれるので、犯人当てには苦労しない。しかし、解決編では、犯人当てではなく、物語の真の解決に向かってプロットを組むクロフツの正義感・警察愛が輝くので最後まで見逃してはいけない。

 

 本書の醍醐味は、やはりフレンチ警部の着実な捜査と、徐々に逮捕の輪が狭まっていく様。そして、素人犯罪者に対する、捜査のプロの手腕をじっくり堪能できるところにある。これは、たまにテレビで特集される「警察24時」のようなドキュメンタリー番組に近い。警察官の鋭い目はどんな悪事も見逃さず、怪しい動きや人間を機敏に捉える。様々な悪に対して、正義は決して怯むことは無く、警察の執念の捜査は報われ、最後には必ず正義が勝つ。これが多くの作品の中でフレンチ警部が体現していること。

 わかった。私がクロフツものが好きなのは「警察24時」が好きだからだ。たぶん。

では! 

『本命』ディック・フランシス【感想】硬派と軟派のあいだ

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Dead Cert

1962年発表 菊池光訳 ハヤカワ文庫発行 

 

ディック・フランシスという男

 ディック・フランシスは1920年ウェールズ生まれ。祖父の代から競走馬の世話や騎手、厩舎に関わりのある家庭で育ち、フランシスも幼少期から乗馬をこなすなど馬になじみの深い生活を送ります。

 大人になり身長が伸びてしまったフランシスは平地競争の騎手にはなれなかったものの、障害競走の騎手としては年間の最多勝利騎手になったり、エリザベス王太后の専属騎手を務めるなど、騎手としての成功を収めました。

 37歳で騎手を引退後、新聞の競馬欄を担当する新聞記者をする傍ら、1962年処女長編である本書『本命』を発表します。日本では、「競馬シリーズ」と呼ばれる競馬場や馬をプロットに組み込んだミステリが人気を博しました。絶版状態のものが多く手に入るものとそうでないものの差が激しいですが、40作以上の著作は全て翻訳されています。

 

 ディック・フランシスの作品の良さについては以下の記事に心を動かされました。ディック・フランシスを「神のような存在」と呼ぶ筆者の大きな愛が伝わってきます。かくいう自分もこの記事を読んで集めようと思ったのでぜひご覧ください。

初心者のためのディック・フランシス入門(執筆者・五代ゆう) - 翻訳ミステリー大賞シンジケート

 

 

 

ネタバレなし感想

 本書はなかなかにショッキングなシーンで始まります。500㎏近い馬体を軽々持ち上げる筋肉ときらめき靡く鬣を持つ名馬が、まさかの事態に陥ります。そのレースに参加し、事件を目の前で見ていた主人公の騎手ヨークは、レース中に見た“その場にあるはずのない物”を思い出していました。悲劇に見舞われた親友の無念を晴らすべく、ヨークは単身調査を開始します。

 

 最初に言うのもなんですが、巻末の原田俊治氏(JRAにも長く勤めた馬の専門家)の「競馬、イギリスと日本の違い」がめっちゃ面白いです。本書のネタバレはなく、本書のような競馬を題材にした推理小説を読む際に役立つ事象を紹介してくれているので、先に読むのも良いかもしれません。

 

 事件は障害競走のレース中に起こったということで、謎の手掛かりも全て競馬場に散らばっており、ヨークは、同僚の騎手や競馬場に出入りする関係者に聞き込みを行い少しずつ手掛かりを集めていきます。私自身まったくと言ってよいほど競馬の知識は皆無なのですが、このヨークの聞き込みをとおして、競馬場のしきたりや習慣、レースのルールや賭けの仕組みなど、競馬知識が増えていく感覚も本書の醍醐味です。

 

 その後ヨークは、競馬界に蔓延る闇に少しずつ足を踏み入れてゆきます。そして、その闇に呑みこまれているのはヨークだけでなく、同僚のジョッキーたちであることも明らかになり、事件は新たな展開を迎えます。

 

 自分自身が容疑者だと疑われながら、また、脅迫され命の危険を感じながらも、愛する友のため/友の遺した家族を守るために孤軍奮闘する主人公の輝きが眩しすぎます。

 手掛かり自体は、進行に合わせて自然と主人公の周りに集まってきますし、わかりやすいミスディレクションもちゃんと機能を果たしながら物語が進むので、謎解きの面では決して難しいものではありません。

 それでも後半に行くにつれてボルテージが上がっていくのは、大敵との戦いを描いた、迫真のマ(馬)-チェイスシーン。最近、大都会NYで馬を駆りながら超絶アクションが爆裂する映画(『ジョン・ウィック:パラベラム』)を見たので、めちゃくちゃシンクロしながら読むことができました。興味のある方は、是非『ジョン・ウィック』三部作もご覧ください。

 

 

 閑話休題。先の記事でもあったように、本作でも、“数々の困難を不屈の闘志で乗り越えていく英国紳士”というディック・フランシス作品共通のキャラクターが、ヨークという名を借りて、大立ち回りを演じるわけですが、本作にはそれに加えて脇役たちの深い造形も際立っています。親友の愛らしい子どもたちとの僅かなエピソードも一つ一つが鮮烈な印象を残すし、ヨークの友を思う熱い眼差しは、すでに世を去った人物にすら優しく力強い光を投げかけます。

 また、エキサイティングな冒険活劇とロマンスの書き分けも抜群に上手く、ヨークと新進気鋭の騎手との恋のさや当ても見どころの一つです。恋であってもスポーツであっても心身ともにタフな、英国紳士然とした誇り高き男たちが、悪を倒すヒーローものとして読み継がれるべき名作です。

 

 

 

 どうにもこうにも綺麗に言語化できなくて、あとちょっとダラダラ書きます。

 たしかに本作の主人公には、不撓不屈の精神というか、わかりやすい漢らしさ、正義へと向かう真っ直ぐな意志、硬派な姿勢が満ちているのですが、一方で、洗練されたユーモアの感覚もばっちし備わっていて、ここがすっごい不思議な(それでいて心地よい)感覚なんですよね。つまりは、お堅くないんですよ。でも決して軟派でもない。

 もう数作読んで、もっとディック・フランシスにのめり込みたいなあ、とそう思わせてくれる作品でした。

では!

 

『月光ゲーム Yの悲劇’88』有栖川有栖【感想】大学いっときゃよかった

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表紙のおじさん誰?(めっちゃ失礼してたらどうしよう)

 

1989年発表 江神二郎1 創元推理文庫発行

 

 国内ミステリの傑作を少しずつ読んでいく企画。島田荘司綾辻行人ときてお次は有栖川有栖に挑戦です。

 幸か不幸か、いくら国内ミステリの傑作とはいえ、あらすじやメイン探偵のキャラクターなんかも何も全然知らないんですよね。とはいえ本作はタイトルにエラリー・クイーンの名作『Yの悲劇』が入っていることからもたぶん王道のダイイングメッセージものなんでしょう。かの名作とは違った解釈で、ズバッと読み手を斬ってくれるはずです。

 

 まずはプロローグの火山噴火のシーンから勢いがあります。唐突にたくさんの登場人物が出てきてやや混乱しますが、既に事件が起きていること、火山噴火にまきこまれ進退窮まる危機的状況に置かれていることがわかります。

 第一章に「戻り」舞台は事件が起こるまで遡ります。英都大学推理小説研究会のメンバー4名が矢吹山へキャンプに行くことと、その場で他の大学のメンバー13名と出会い、一緒にキャンプを楽しむことなど舞台設定が少しずつ明らかとなります。

 

 推理小説研究会の面々を主導に行われる推理ゲームから、メンバーの一人の突然の脱落、第一の噴火と自然災害による特殊なクローズドサークル成立までテンポよく物語は進んでいきます。

 ここから解決編まで怒涛の勢いで、ありとあらゆる種類の手がかりらしきものをばら撒きながら事件が起こっていくわけですが、この物量と熱量がとにかくすごい。

 一つひとつのヒントが、絶対に犯人たった一人を指し示していると、わかるのはわかる(作者が自信満々でこっちを見ているのもわかる)んですが、何一つピンとこないのは私がとことんポンコツなせいでしょうか。

 

 本書では複数の種類のハプニングが起こるわけですが、事件ごとに違った趣向の手がかりが残されているのも楽しめるポイント。アリバイがない事件ではダイイングメッセージ、アリバイがある事件では暗示的な小道具、フィルムの入っていないカメラ、などなど多岐にわたります。もちろんこの全てに解決編で適切な解が与えられ、たった一つの真実へと導かれます。

 以上、論理的な解決という意味においては、ほぼ完ぺきと言っていいミステリでした。だから、再読すれば、もっと良さがわかるはず……。

 

 

 

ネタバレを飛ばす

以下、個人的にしっくりこなかったところです。

本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本書を読んでからお読みください。

《謎探偵のグチグチ》

 

●犯人の動機について

 犯人の人物像を物語の中で掘り下げない中で、愛する人を奪われた復讐という動機は全く納得できない。もちろん読者は作者(神)の采配に納得などする必要などないが。

 で、犯人の動機になる失踪した彼女の生死が最終盤にならないとわからないのもご都合主義に感じてしまう。もちろん、彼女が失踪と同時に死亡、もしくは失踪せずに死亡してしまった場合、恋仲にあった犯人に焦点が当たってしまうし、彼女がいなくなることで、ダークホースとしての役割も与えることができる。ただ、論理的なミステリを目指すのであれば、一度退場した人物が犯人というのはありえない(また集団に紛れ込むのはあり)し、彼女に誘導する意味があまりないように思える。

 大文字と小文字を使い分ける超巧妙なダイイングメッセージだけで十分通用すると思うのだが。あと、名前の読み間違いの件も余計に感じる。

 

 

ルナのルナルナした記述はなんだったのか。

 

●余談

 本書の悲劇とは、犯人と彼女に降りかかったものではなく、狂人に殺された被害者たちに起こったこと。

 

 

 

      ネタバレ終わり

 

 以上は、本当に緻密に計算された、論理的な解決を中心に据えた本作だからこそあら探ししちゃう(悔し紛れ一本背負い)自分の後ろ暗い部分。

 もう一つ、これは自分が悪いんですけど、大学を出てないので、なんかキャイキャイしている大学の雰囲気というか、この学生ノリみたいなのが終始キツくてですね……。解説にもある「青春小説」の部分が、ものすごくしんどかったです。

 高校生くらいで読んでいたら、もしかしたら自分も大学に行ってミス研なんかに入ってたのかな。いや、絶対入っていただろうなと……。なんか、今、口の中が苦いです。

では。

 

 

『吠える犬』E.S.ガードナー【感想】今日もカッコいいぜ!おれは吠える

THE CASE OF THE HOWLING DOG

1938年発表 弁護士ペリー・メイスン4 小西宏訳 創元推理文庫発行

前作『幸運の脚(幸運な足の娘)

次作『奇妙な花嫁』

 

隣人の家の犬が吠えて迷惑だ、という依頼を受けたメイスンだったが、隣人の主張によると犬は吠えなかったのだという。依頼人のただならぬ様相に、調査を開始するメイスンだったが、その依頼人が行方知れずとなり……。

 

 もちろんただ犬が吠えるか吠えないかでメイスンが出張るわけではない。依頼人の質問は、自身の遺言書の作成に関することであり、財産の遺贈先は隣人の婦人、しかも人妻だったのだ。

 依頼人の抱える秘密というのが、勘所なのは案違いないのだが、メイスンの調査が進んだ矢先に依頼人がさる女性と駆け落ちしてしまい、さらには関係者の一人が殺されてしまうに至り、メイスンがやや宙ぶらりんになってしまうところに物語の面白さがある。

 

 メイスンは依頼人がいなくなっても捜査を続行する。それは、ただ単にやり始めた仕事というだけではない。事件の背後にきな臭い何かを感じ取っていたからだった。影に葬られた事実を探るため、デラや探偵ポール・ドレイクの力を借りながら情報を収集するのはいつも通りの流れ。

 主要な登場人物は僅か数名なのだが、全員の人間関係が縺れに縺れているので、それを解き解すのが中盤の動き。しかし、その混乱が解れてきたころにはすでにメイスンは事件の全容を掴んでいるような動きを取り始める。そしてここから法廷の魔術師による一世一代の大魔術の仕込みが始まってゆく。

 この仕込みのバリエーションの多さとクオリティの高さがとにかく素晴らしく、まったく中弛みさせずに物語が進む。姑息で厭らしい舌戦ではない、正面から正論を鈍器のように固めてぶん殴る硬派なスタイルに心をぐっと掴まれたまま、緊迫の法廷シーンへと進んでいく。(もちろん、騙すという点では卑怯な手にも見えるが、堂々としすぎていて逆にカッコいい)

 ここでメイスンは、頑なに即日の結審を要求し、焦っているかのようなそぶりも見せる。周囲はメイスンが何か大魔術を行おうとしていること、その気配を感じながらも、法律という金城鉄壁の檻を前に手出しができない。このメイスン無双の爽快さ、力を力で抑え込む快感がたまらない。

 

 そして法廷で暴かれる、凶悪な犯罪と隠された真実に驚愕した矢先、もう一つの大イリュージョンが眼前に現れる。メイスンの弁護士という立場の絶妙さ、「知らない」という力の強大さ、今までの事象全てが薄氷を履むが如し危ない状況の中で進行していたという恐ろしさ、そして、そんな極限の状況下でも不敵な笑みを浮かべて法廷に立つメイスンの威風堂々とした姿に胸を撃ち抜かれる。

 なぜこんな格好良いキャラクターが今の日本で広まっていないのか。今こそ、弁護士ペリー・メイスンを読むべきだ。

 

 ひとつ残念なのは、本書(創元推理文庫版)にはペリー・メイスンもののお約束でもある、次作の予告がばっさりカットされている点。『義眼殺人事件』を読んでいないので、「まったくの同文」がどういう意味かは理解できないが、重複を避けるメリット以上にメイスンものの雰囲気を保つためには、次作紹介は削ってほしくない。本書は他にも早川書房や新潮文庫でも出版されているようなので、そちらも確認したい。

では!

 ネタバレを飛ばす

 

 今回は推理過程はお休み。

 シンプルにメイスンのこそこそとした捜査にワクワクしすぎてしまって、推理どころじゃなかった。

 一応記憶の補完のため、真相だけ記録しておく。

以下超ネタバレ

 

 真犯人はなんと容疑者その人。つまり、メイスンは自身の依頼人が犯人であるにも関わらず、無罪判決を勝ち取ってしまったのだ。しかも意図的に。

 今まではてっきり、メイスンは自身の依頼人が無罪だと確信しなければ弁護を引き受けない弁護士だと思っていたが、今回は、その掟を破ってしまったらしい。ただ、メイスンは彼女の偽りの証言を追求しなかっただけ。

わかりました。一応、そういうことにしておきましょう。では、あなたは真実を話していると。頁176

が意味深長に聞こえる。

 あと、もちろん裁判の主旨はクリントン・フォリー殺害事件なのだが、号外(新聞記者のピート・ドーカス)という隠し玉を利用して、いつの間にかアーサ/ポーラ・カートライト殺害事件にそれとなく誘導しているのも巧妙。この点においては、メイスンのセルマ・ベントン追及は的を得ており、確かに正義の執行には一役買っている。

『フレンチ警部と毒蛇の謎』F.W.クロフツ【感想】倒叙のようで倒叙でない

ANTIDOTE TO VENOM

1938年発表 フレンチ警部18 霜島義明訳 創元推理文庫発行

前作『シグニット号の死

次作『フレンチ警部と多忙な休暇』

 

 

 三大倒叙の一つと呼ばれる『クロイドン発12時30分』を生み出して以降、クロフツの倒叙に対する興味はしばらく色褪せなかったようで、その後も数作の倒叙作品を発表しているが、本作もそのひとつ。

 

 主人公ジョージ・サリッジは動物園の園長を務めている。仕事には誇りを持ち、同僚からの信頼も厚い彼にもただ一つ不満があった。しかしそんなある日、ジョージはナンシーという女性と運命的な出会いを果たす。そして、これがジョージの破滅の始まりだった。

 

 倒叙によくある形というのは、犯人は自身の境遇を恨んで、短絡的な思考で犯罪に手を染める軽蔑すべき犯罪者、というもの。もちろんジョージも例外ではなく、利己的な考えに囚われ犯罪に加担していくのだが、悪の道に踏み入れるまでの葛藤や外的要因が丁寧に描かれているので、心から憎めないのが興味深いところ。特に動機はまだしも、決定的な外因については、ジョージに同情すら覚える。

 

 また本書はただの倒叙ではない。本書の序文で作者クロフツがこんなことを書いている。

本書は二つの実験を行っている。第一に、通常の叙述と倒叙を組み合わせた探偵小説の成立を試み、第二に、犯罪の前向きな描写を目論んだ。

 

 通常の倒叙の中に叙述の謎を巡らせた作品だと、バークリーの傑作『試行錯誤(トライアル&エラー)』があるが、あちらは、徹底的に倒叙らしさを隠そうとしているのに対し、本書は倒叙でありながら、決定的なシーンをあえて省略することで、通常の叙述ミステリの楽しみ方もできるようになっている。

 倒叙と通常の叙述をただ単に分けるだけでなく、その形がちゃんと本書の謎に直結し、読者に推理の余地を残しているのが巧い。

 

 もう一つ「犯罪の前向きな描写」については、物語の帰結に宗教的な味付けが為されている部分だろう。ちょっと定型すぎてクサいところだが、本格ミステリではあまりみない演出のため、珍しいものが読めた、と素直に楽しむのが吉。主人公のキャラクターにもばっちり合っている。

 

 最後は、本書の骨子である毒蛇にまつわるトリック。

 真相に繋がる手がかりが後出しなのはいつもどおりのクロフツだが、固定観念にとらわれていては解けない仕様になっているのはさすが。もちろん、このトリックを使用した根拠/説得力もしっかり提示されている。ある意味犯人の気遣いというか、完全犯罪に迫る優秀なプロットであるのは間違いない。

 

 巻末の戸川安宣氏の解説も見どころが多い。オースティン・フリーマンとクロフツの共通点を挙げながら、二人のミステリへ取り組む写実的な姿勢を示している。事件のデータを徹底的に読者に開示するという点で、ロジック代表派のクイーンとは違ったアプローチでフェアプレイに挑んでいたことがよくわかる。

 

 そろそろフレンチ警部が最前面にでる作品を読みたいが、次の『多忙な休暇』も少し毛色が違う作品。なんか最近、強烈な探偵役に飢えてる気がする。

では!

 

『震えない男』ジョン・ディクスン・カー【感想】展開力を楽しむ

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THE MAN WHO COULD NOT SHUDDER

1940年発表 ギデオン・フェル博士12 村崎敏郎訳 ハヤカワ・ポケット・ミステリ―525

前作『テニスコートの殺人

次作『連続殺人事件』

 

 

ネタバレなし感想

 

飛びつく椅子、揺れるシャンデリア、曰く付きの幽霊屋敷を買い取った物好きが幽霊パーティーを開こうとしていた。招待を受けたのは、様々な社会的身分と属性を持つ人々の代表者たち。実際的な考えを持つ婦人、想像力に満ちた文筆家、頭の堅い実業家と神経質な妻、科学的な頭を持つ建築家、探偵能力に秀でた弁護士などが集まった。

そして、屋敷につくやいやな、突然ひとりでに拳銃が火を噴く。目撃者は多数いるのにもかかわらず、その原理は不明で、不吉な幽霊屋敷の伝説が頭をよぎる。はたして、フェル博士は、この怪奇現象の真相を見抜くことができるのか。

 

 うーん。久々にカーの本格的な怪奇ミステリを堪能できるかと思いきや、どうにもしっくりこない一作でした。そもそも、たぶんですけど、カー自身がそんなに怪奇ミステリとして造り込んでいない傾向はあると思います。怖がらせる気が無いというか、あまりに淡泊な怪奇描写が多くて、どこまで本気なのか/本当に怪奇だと思わせたいのか自信がありません。

 怪奇で言うと、少し前に読んだ『毒のたわむれ』や『読者よ欺かるるなかれ』がかなり振り切った内容だったので、少しプロットの点で見劣りする部分もあるように思えます。

 

 登場人物同士の人間ドラマに加えられた一捻りはミステリにちゃんと組み込まれていますが、そもそも、被害者を含めた登場人物に深みがないので、その点でも読み続けるモチベーションが上がらないのも問題です。

 

 屋台骨にもなっているトリックについては、優劣で判断できるものではないですが、敢えて厳しく言えば、「最初からこういうトリックでした」と知っていたら、別に読まなかったレベルのトリックと言って良いと思います。

 

 それでもなお、本書が異様な印象を残したままなのは、やはり解決編で起こるハプニングというか、ありきたりな言い方で言えば、どんでん返しのおかげです。

 ひっくり返るというほどではありませんが、真理によって炙り出される一種の不条理/不合理と、それにともなうフェル博士のこれまでの言動の正当性がしっかりと読者に明かされるのは、たしかにカーの器用なところです。

 

 トリックやプロット、物語の雰囲気という大枠ではなく、カーの天才的な展開力の高さを堪能できる点では、良くできたミステリと言えます。

 

 

ネタバレを飛ばす

 

以下超ネタバレ

《謎探偵の推理過程》

本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本書を読んでからお読みください。

 

 怪奇描写について、何度読み返してもピンとこないのが正直なところ。

 勝手に動き出すシャンデリアも、足首を掴む手も、ましてやひとりでに飛び上がって火を噴く拳銃なぞわかるはずない。

 

 登場人物同士のドロドロ(特にギネスと浮気相手X)がいつまでたっても釈然としないのも停滞感がある部分。

 エンダービイの証言があやふやで曖昧なのも推理が進展しない要因。誰か一人でいいからまともな証言をしてくれ。

 

 ローガン殺害の動機から考えると、シンプルに考えれば浮気相手Xが犯人かと思われるが、同じ部屋に愛人がいて、容疑が彼女にかかるのを承知で殺人を犯すだろうか?

 ローガンを憎んでいたのではなく、ギネスを死刑にするためか?とも考えたが、主要な女性がテスしかおらず、彼女は語り手ボブの未来の妻だから犯人ではない。

 

 もう一度最初から読み返してみて感じたのは、ボブの友人で建築士のアンディがギネスについて語るときのぎこちなさ。ギネスの愛人がアンディの可能性は高い。が、その個所を何度読み返してみても、アンディの鉄壁のアリバイは揺るぐことが無く、ボブの目の前でローガンは死んでいる。

 うーん、トリックさえ解ければなんとかなるのに……。もしかして、とんでもトリックじゃないだろうな。

 いかすかねえのはクラーク一択なんだがなあ。降参。

 

推理

アンディ・ハンター

 

真相

ボブ・モリスン(実行犯)

マーチン・クラーク(計画)

こんなんわかるか!笑

 

 トリックについては、何も言うまい。

 カー本人に「あれはね…これはね…」って解説されても、「ふん、知らないんだから!」とそっぽを向ける自信はある。

 でも、ギネスとアンディが愛人関係にあったという手掛かり配置は見事。登場人物同士のさりげない会話の中や、細かい動きの中に隠された二人だけの繋がりはさすがと言うほかない。まあ、どこをしっかりやっとんねん、とツッコミたくもなるのだが。

 あとは、クラークがローガンを殺そうとする動機が全然わからない。何か仲も悪そうだし、自尊心を刺激されたのは間違いはないが、それでもよくわからないまま終わってしまった。どこか読み飛ばしてしまったのかもしれない。もしわかる方がいらっしゃったらご教示いただけると嬉しい。

 

 

 

        ネタバレ終わり

 

 作品には直接関係ないのですが、ギデオン・フェル博士にはできれば最初から出張っていて欲しいと感じました。これだけ存在感の塊みたいな人物だから、物語の途中で登場するのがどうももったいなく感じてしまいます。お得意の仄めかしとか、煙に巻く手腕を最初っから堪能したいです。

 次の『連続殺人事件』は相当に傑作だと聞きます。フェル博士がいつ登場するのかも楽しみたいと思います。

では!

 

 

 

『シグニット号の死』F.W.クロフツ【感想】フレンチ警部に旅をさせてやってくれ

THE END OF ANDREW HARRISON

1938年発表 フレンチ警部17 中山善之訳 創元推理文庫発行

 

前作『フレンチ警部と漂う死体

次作『フレンチ警部と毒蛇の謎

 

 

 フレンチ警部シリーズも第17作になりました。『ヴォスパー号の喪失(遭難)』 『船から消えた男』『フレンチ警部と漂う死体』に続く船四部作の四作目です。

 

 不遇の青年マーカムが職を見つけるまでの冒頭のドラマだけで、ああクロフツに帰ってきたと思わせてくれます。

 クロフツって、こうやって、事件の舞台となる家族や集団に対する第三者を用意するのがめちゃくちゃ巧いですよね。フレンチ警部が登場するまでの狂言廻しにも、ミステリとしてのワトスン役にも、素人探偵にもなる人物を自然に配役する手腕には確かなものがあります。

 

 富豪の証券業者とその近辺の紹介が済むと、まず第一の事件が起こります。これが中々意味深で面白いんですよ。

 一つの事象に対して、恩恵を受ける人と不利益を被る人がちゃんと存在していて、フーダニットに関する伏線がちゃんとちりばめられているのがわかります。

 

 メインの事件が起きると、あとはいつも通り/型どおりの捜査が始まるのですが、ここでもある人物の死によって影響が二極分化する構図が上手く作用しています。ただ、フレンチ警部の登場と同時に、事件の概略はすぐ明らかになってしまいます。

 エンタメとしてのミステリで言えば、面白くはないんですが、科学と物理を組み合わせたトリックは現代でも通用し「そうな」リアリティあるトリック(というか中1の理科の実験)で親近感がわきます。

 

 中盤以降は、もう何も言うことが無いくらいクロフツ(地道な捜査が続くの意)です。

 登場人物は全員が黒っぽくて、でも調べてみると白。でもやっぱり調べ直すと黒、みたいな状況を行ったり来たり。

 典型的な第一容疑者が自ら犯人顔でウロチョロするものだから、フレンチ警部もマジになっちゃって、必死に追い込みをかける、このお約束とも言えるドタバタ劇を楽しめるかどうかで、真のクロフツファンかどうかが問われます。 

 

 ただ、さすがのクロフツファンでも解決編は沈黙。

 退屈(アンニュイ)派筆頭のクロフツらしい丸投げ解決はこれはこれで良い味というか、もうただただ飲み込むしかない状況に安心すら覚えます。

 船が登場するので、もう少しフレンチ警部の旅行が多ければ、もっと作品の魅力は増していたかもしれません。

 

 今回は推理過程はお休み。クロフツものって、淡々とフレンチ警部の捜査に付き合うことが多くて、論理的な推理が進まない(手がかりが突然見つかる)作品も多いので、そもそもこの企画とは合わないんですよね。

 

 最後に、本書の巻末には、作家であり評論家であり翻訳家でもある紀田順一郎氏の解説が掲載されているのですが、こちらの中身がかなり充実しているので、クロフツ作品への理解を少しでも深めたい方にもオススメです。(ただし、『死の鉄路』『サウサンプトンの殺人』他いくつかの作品でネタバレ描写があります

 

では!

 

 

『四人の申し分なき重罪人』G.K.チェスタトン【感想】逆説戦隊

FOUR FAULTLESS FELONS

1930年発表 ノンシリーズ 西崎憲訳 ちくま文庫発行

 

 

 ミステリ作家としてのチェスタトンの人生の中でも晩年に発表された中編集です。

新聞記者ピニオン氏は特ダネの取材のため、ある高名な貴族の取材のためにロンドンを訪れます。そこでその貴族・マリラック伯爵の4人の友人たちと出会い、彼らが結成した『誤解された男のクラブ』にまつわる「信憑性や理解力をも超越した」物語を聞くことになります。

 

 本書を一言で言い表すなら、「逆説戦隊フォーフォルトレスフェロンジャー」です。ダサいんでもう二度と言いません。とにかく逆説の美味をこれでもかを味わえる連作中編集です。

 逆説がどれだけ本書の中核をなしているかは、本書のタイトルそして章題を見ると明らかです。

タイトルは、ちょっと置いておいて、各章を見てみましょう。

穏和殺人者

頼もしい藪医者

不注意泥棒

忠義反逆者

 

 どれも相反するような二つの単語が組み合わさっています。

 それぞれの会員によって語られるのは、一見適応しないような二つの言葉が組み合わさったタイトルの真の意味。事件全体の絶妙な取り留めのなさや曖昧さ、それらが孕む矛盾を鮮やかに解きほぐす解決編のギャップが最大の魅力です。

 

各話感想

『穏和な殺人者』

 作中では舞台である国の名前がリビアとされていましたが、“エジプトに隣接した国”“政治的配慮が必要”という情報から、第二次世界大戦後に英仏の共同統治領とされたリビアだと思われます。

 ある謀殺未遂事件で容疑者とされる人物がまあ変なこと。一文だけ引用します

誰かが絞首刑に処されるのを妨げるために、その人物を絞首刑に処したことがありますか?-頁89

かまいたちがネタでこんなこと言ってますよね。

 二度見ならぬ二度読みです。で、二度読んでも三度読んでも全然意味がわからないんですよね。こうなってくると楽しくなってくるというか、チェスタトン節の意味不明さににやけてしまいます。

 そして、解決編で一つ一つの小さなの霧がパッと晴れて真相が明らかになるときに思うんです。じゃあ最初っから簡単に言ってくれよって。何で万人に伝わるよう一言で真相を告げてくれないんだ、と。でも最後の最後で、チェスタトンの頭の中にあった一つのテーマが浮かび上がってきて、ああ、そうか。この逆説だらけの文章の中に尊いまでの思想と裏のテーマが忍ばされていたことに気付き膝を打つのです。

 間違いなく本書の看板になる一編です。

 

 

『頼もしい藪医者』

 これまたユーモラスなタイトルです。

 本書の主人公は『穏和な殺人者』とうってかわって常識人然とした立ち振る舞いですが、彼以上の変人が登場するので、話の展開がどうなることやら全然予測がつきません。

 簡単に言えば、ある一本の樹と老人のお話です。

 キリスト教の訓話めいたオチは、幻想的でありながら実際的な面も持ち合わせていて、夢と現実の狭間を漂うかのような、虚構なのに現実で起こりそうな物語そのものが抜群に上手くできています。

美しすぎて大好きな一文を紹介します。

悲劇の名はロンドンといった-頁113

 

『不注意な泥棒』

 一代で身を立てた老実業家とその三人の息子たちのお話。経営方針について父と対立する二人の息子と、国外へ追いやられた一人の放蕩息子、というミステリでもお馴染みの設定です。

 ただ一つ違うのは、血腥いドロドロの殺人事件に展開しないこと。なんと、軽犯罪を取り扱うキレッキレの法廷ミステリになるんですよ。

 どんな裁判でも苦戦しそうな案件なはずなんですが、ちゃんと証人の証言を元に論理的に事実を立証する点においては、かなり精度の高い法廷ミステリだと思います。もちろん題材にもなっている宗教を絡めたオチも見事。

僕はその時、宗教というものを見たのだと思う-頁258

ん?どうした大丈夫か?

 

『忠義な反逆者』

 舞台はどこでしょうかねえ。バルカン半島であること、ハンガリー帝国の属国、鉱業で有名……、ボヘミア王国か現クロアチアとかでしょうか。

 一言でいうと、めちゃくちゃかっこいい中編です。怪盗紳士ルパンを彷彿とさせる人物が国家を相手取り何もかも思い通りにしてしまうような痛快かつエキサイティングな物語です。

 近代でありながら、どこか中世風の語り口というか描写も魅力で、本書では一番好みの作品です。

 やっぱり本作は、所々で引用される詩人の詩が秀逸です。

星のことごとくが太陽の輝きの前に色褪せるように

言葉は幾多、しかし真の言葉は一。-頁274

鋼の錬金術師かなんかですか

 

おわりに

 実は本書、四つのエピソードで終わりではなくて、全てを回収する見事なオチが用意されています。ただの矛盾した行動をとる四人の変人というお話ではないんですよ。

 『ブラウン神父』シリーズのような切れ味鋭い短編とは違って、逆説たっぷりに宗教・政治・ファンタジーを語りつくす濃密な物語になっています。チェスタトン独特の文体と言い回しに慣れさえすれば、楽しめること間違いなしの名作中編集です。

 

 最後に、一つこの物語が真理なのかもしれないと思うことがありました。

 仕事で先輩からよく「賢いバカじゃないと質問はできない。バカのふりをしろ」と言われます。もちろん実務とか、処理において単純なバカではやってられないんですが、物事の本質を見抜く力とか、上の人間が決めたことの真意/背景/経過/根拠っていうのは、良質な質問から引き出せるものです。

 上っ面だけでわかったふりをして、行動を起こさないと、それこそどんどんバカ(何も考えずに言うことだけを聞くイエスマン)になってしまうというわけです。

 自分の尊敬する先輩で、会議とかで積極的に質問したり問いただしたりする人がいてて、たぶん自分は答えもなにもかもわかっているんですよね。でも、その人が質問するおかげで、なんとなくモヤモヤしていた後輩とか、全然関心もなかった人に気付きが生まれるんですよ。質問した人間も、改めて情報のすり合わせとか、インプットとアウトプットが同時にできるし、良いこともあるんですよね。バカな質問かもな、と思うことでも、もう一つその奥まで引き出せるような賢いバカでありたいと思ってます。

では!

 

 

 

 

閉所愛好家の謎【解決編】 

まさか、問題編を超える文字数になるなんて思いもしませんでした。いかに問題編にちゃんと手掛かりを配置できていなかったか、ということでしょうか。

無駄な記述が多いせいかもしれません。トリックに苛立ってもビン・カンを投げないように。危ないです。

 

 

 

まずは問題編からどうぞ。

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閉所愛好家の謎【解決編】

 

「あのう……。もしかすると、あそこかもしれません」

そう言って青年は自信なさげに語り出した。

「なんだって?社長がどこにいるのかわかるって言うのかい?」

青「かもしれないってだけです。社長室に行ってもいいですか?」

「ああ、もちろんかまわないが……」

私たちは、1階のロビーから7階へと向かうため、改めてあの古びたエレベーターの前にやってきた。自動扉の金属板が不協和音を奏でる。青年はほんの一瞬顔を歪めたが、扉が開き切ると同時にそそくさと乗り込んだ。

青「ちょっとはかってもいいですか?」

「測るといっても、この中にはなにもないはずだが」

青「エレベーターの中には社長はいませんよ。例えばエレベーターの上部もしくは下部とかエレベーター棟のどこを探しても無駄です。そもそも通常屋上にあるべきエレベーターの機械室にすら、このビルからは入れないんですよね?」

「たしかにこのビルから屋上に出る手段はない。たぶん隣のビルから連絡橋のようなものを接いで渡ってくるんじゃないのか?」

青「それもありです。あと、はかるのは時間ですよ」エレベーターが沈黙を破って動き出すと同時に、青年は腕時計の2時の位置にあるボタンを押し計測を始めた。どうやらエレベーターが7階まで到着する時間を計るつもりらしい。

青「2階……55秒。やっぱり長いですね。あ、副社長、各階へ到達するまでの経過時間を言うので、記録を取っておいてもらっても良いですか?」

言うのが遅い。そして断りようがない。胸ポケットのボールペンを取り出し、掌に2-55という具合に数字を書き出した。

青「3階は31秒です」

1階分通り過ぎるのに31秒もかかっているのか。この調子なら7階にたどり着くのに3分以上はかかる計算になる。直通でこのペースなのだから、途中で止まるとなると、扉の開閉時間を加えて倍はかかるだろう。早急にエレベーターの修理も必要だな。そんなことを考えているうちに、エレベーターは7階へと到着し、いつもの見慣れた社長室へとたどり着いた。

青「どうなりました?」

私は掌のメモを青年の顔の前に翳した。わかりやすく列挙すると次のようになる。

2階、55秒

3階、33秒

4階、35秒

5階、32秒

6階、33秒

7階、52秒

私の感覚が間違っていたようだ。たった20mほど上昇するだけなのに3分ではない、4分も要していた。カップラーメンの麺だってのびてしまう。往復となると尚更だ。そんなくだらない思考が顔に出ていたのか、青年は眉間にしわを寄せつぶやいた。

青「思ったとおりです」

「何が思ったとおりなんだ?」

青年はすでに社長机に向かって駈け出しており、私の言葉が聞こえたのかどうかはわからなかった。後ろでエレベーターが1階へとUターンしたのがわかった。

青「まずは社長の救出が最優先です。こっちにきて手伝ってください。」

青年はそう言って、社長机の後ろに回り込み、壁に立てかかった3枚の扉を動かし始めた。それらは、”修理中”と書かれた緑色の扉を1/3ほど塞ぐ形で壁に立てかかっていた。

「その扉がどうしたんだ?」

青「早く!とりあえずこの3枚をソファの方までもっていきましょう」

この作業は簡単には運ばなかった。3枚の扉はいずれも一枚板でできた特注品で、一枚当たり約50㎏はある代物だった。しかし、青年(ここにきて青年が彼なのか彼女なのかがわからない)は、華奢な見かけからは想像できない腕力で扉の片側をしっかりと持ち上げ、黙々と運搬をこなした。たった3枚とはいえ、作業が終わるころには二人とも汗だくで、青年の顔にも疲労の色がはっきりと見て取れる。

「この横倒しになっている扉も運ぶのかい?」

青「いや、もう大丈夫だと思います。こっからが上手くいくか不安なんですが。」

青年は”修理中”の扉の前に立ち、そっとドアノブに手をかけた。私の心の中の声がそのまま口から漏れ出た。

「まさか!そんなことがあるわけない!」

A「その、まさか、だよ」

エレベーターに目を向けると、そこには額に大粒の汗の玉を光らせて息を切らすAと救急鞄を大事そうに抱えた救急隊員がいた。Aの右手にはバールが握られている。

「いや、でも、そんな、だって」

しどろもどろになっている私を押しのけ、Aは扉の前に立った。
青「やっぱり鍵がかかっています」

鍵だって?

A「思ったとおりだ。こいつでこじ開ける」

こじ開ける?何を?

Aはバールを両手で持ち、壁にくっついている”修理中”の扉の隙間に躊躇なくこじ入れた。

「危ない!」ここは7階だ。もしその扉が開いたとしたら……。

今でもAは、私のこの一言を忠実に、迫真の演技で声色までも変えながら真似をして小馬鹿にする。私だって、あの時のAと青年の「信じられない」といった表情のシンクロニシティを思い出すと笑いがこみあがってくるのに。

Aにバールをねじ込まれた扉はバキバキと悲鳴を上げ、緑色の木片をばらまきながら傷口を拡げた。数分後、ガチンと金属のねじ切れるような音とともに、扉がすうっと音もなく部屋の外側に向けて開き出した。

 

 

 

 

 

 

この後の記憶はやや曖昧で、扉が開いてからの数時間は、まるで連続写真のように映像が切り取られて頭の中に格納されている。

扉の先にある空間に飛び込むAと青年。そしてその後を追う救急隊員。呆然と立ち尽くす私。茶色い大きな物体に覆いかぶさるようにして声をかける救急隊員。高級な樫の扉に括りつけられエレベーターで搬送される父(これはのちに担架代わりだったと教えられた)。がたごとと轟音をまき散らす鉄の箱を待つ無限にも思える時間。白一色の救急車。病院。

 

 

父は、いったい何を……いや、あの部屋はいったいどこにあったのだろうか??

 

 

 

 

一週間後、私は父が入院している病院の個室でAと青年を待っていた。あの日から私は、自宅と病院を往復する毎日を過ごし、外の世界とは隔絶した生活を送っていた。

父はあの事件直後に行われた2度にわたる心臓手術に耐えた。昨日、集中治療室でのモニタリングと状態管理が完了し、今日ようやく一般病棟への移動が認められたところだった。担当医曰く、あと数時間遅ければ間違いなく死んでいた、と言うのだからまさに九死に一生を得たわけである。

父はベッドに横たわり、天井の一点を見つめている。すでに父の意識は覚醒しているが、まだ強い痛み止めが作用しているのか、眼以外の部分には力が入っておらず、表情も乏しい。

私は父の閉所愛好癖を考慮して、一般病棟の中でも比較的狭い個室を用意してもらった。さらに外に面したカーテンは全て閉め切り、間仕切り用のカーテンでベッドの周囲を囲ってさらに閉塞感を生じさせた。照明も従来の半分しかつけていない。ベッドの辺りは特にうす暗く、昼間に台風が到来したときほどの照度になっている。

 

病室の扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

A「元気か?」

「私はね」

入院患者の部屋を訪れて言う台詞ではないだろうと思いながらも、私は内心で彼らの来訪を喜んだ。

青「失礼します」

青年は片手に花束を持ち、Aは小脇に書類の束を抱えている。

「よく来てくれたね。二人には感謝してもしきれないよ。本当にありがとう」

私は青年から花束を受け取ったが、花なんてどう扱ってよいかわからず、ベッド横のサイドテーブルになるべく綺麗に見える角度で横たえた。

A「感謝するなら、自分の行動に感謝するんだな。もし俺に最初に相談せずに、警察に通報していたら、あんなに早くは見つからなかっただろうな」

「その選択の正否は、解決編を聞いてからにさせてもらうよ。聞きたいことが山積みなんだ。聞かせてくれ、あそこは何だったんだ?」

A「解決編はここにいる青年にまかせよう。なんていったって、俺みたいに捜査したり証拠を集めたりせずに、純粋な推理だけで謎を解いちまったんだからな」

青「完全無欠の安楽椅子探偵ってわけじゃありませんよ。鉛筆ビルの不思議について、悩んで考える時間は、むしろ副社長より長かったので」

「鉛筆ビルの不思議って何だい?窓が無いこととか?」

"完全無欠の安楽椅子探偵"とまでは思っていなかったが、解決してもらった立場で指摘するほど傲慢ではない。

 

青「それも一つです。順を追って話すと、まず社長がいなくなった後の行動についてです。一昨日の状況から考えると、社長が副社長と会った後の行動は、1.ビルの施錠を忘れて退社した2.施錠を忘れたまま退社し翌日出社した3.副社長との会見後もずっとビルの中にいる。この3つが考えられます。1の場合は、誘拐とか事故や事件に巻き込まれた可能性が考えられますが、誘拐なら丸一日外部からの接触が何もないのは不自然ですし、警察から事故や事件の連絡もありません。2と3については細かい状況は違いますが、どちらも社長がビルの中にいる、という点が共通しています」

「そこまではよくわかる。ただ、ビルの中は昨日十分に捜索したはずだろう?」

青「十分じゃなかったとしたら?そこで次にわたしが思いついたのが、社員の誰も知らない、社長だけの隠し部屋みたいなものがあるんじゃないか?ということでした。2階から6階までは、わたしたち社員の部署ですから、社長の個人的な隠し部屋があるとは考えにくいです。逆に社長室はフロア全体が社長の占有スペースですし、隠し部屋の場所としてはもってこいです。さらに、社長は修理や調整が必要な扉を全て社長室で保管していましたよね?しかも全てご自身の手で修繕していた。でも、社長室には机や椅子の他に修繕に必要な工具や機材が全くありませんでした。はじめは社長机を作業台代わりにしていたのかな、とも思ったのですが、ソファはいつも綺麗だし、調度類もほとんど劣化していないことから、社長はどこか別の場所で作業していたんじゃないかと思ったんです」

誰もなにも口を挟もうとしないことを確認し青年はつづけた。

青「次に気になったのが、このビルの構造です。社長が閉所愛好家だということはみんなが知っていましたが、愛好家にしては社長室の広さは中途半端だし、いくら愛好家だとはいえ、2階から6階の窓もなくして社員にまで閉塞感を強要するなんてことがあり得るでしょうか?」

私はちらと父の方を見て顔を窺った。青年は父が起きていて、話をきいていることを知らない。

青「全ての階に窓を設けないのはなぜか。それは外の景色を見せないためではなく、外の景色が見えないことを隠すためなのではないか。つまり、そこに窓があってもし外が見えると、何も見えないということがばれてしまうからじゃないか、と考えました」

「外に何も見えない?それは、つまり?」

A「もし、お前が何階でも良いから鉛筆ビルのフロアから、窓を通して外を見たとしよう。何が見える?」

「何が見えるって、たぶん隣のビルとか表の道路、そうだ、あと空だって見えるだろう」

A「そのとおりだ。でも、もし何も見えなかったら?行き交う人々や時とともに移ろう空模様が見えず、ただ真っ暗の土の壁しか見えなかったら?」

「土の壁って、そんな、まさか!」

「まさか、地下だって言うんじゃないだろうな!?」

A「そのまさかさ。お前たちが毎日出社しているあの鉛筆ビルは、地上7階建てなんかじゃない。地下7階建てのビルなんだよ」

「だって、エレベーターはたしかにうえに……」

青「本当に上昇していたでしょうか?あのエレベーターは1階を通過するのに30秒以上かかります。調べてみたところ、一般的なエレベーターの約15倍という遅さです。それにあの上下左右への振動です。どう考えても普通のエレベーターじゃありません」

「じゃああのエレベーターは、乗客の感覚を狂わせるためにあんなに遅く、あんなに揺れて動いていたのか」

青「そのようです。さらに巧妙なのは、実はあのエレベーター、一度上昇しているんですよ」

もう言葉が出てこない。聞くべき疑問すら思い浮かんでこなかった。

青「わたしたちが社長室に向かうとき、各階への到達時間を計っていただいたのを覚えていますか?あの数字にはたしかに不自然なところがあるんですよ。なんだかわかりますか?」

A「そこまで調べて事実を導き出していたのか。すごいな」

Aは私の呆けた表情を察してか、青年に続けるよう促した。

青「あのデータによると1階から2階へ到達するのにかかる時間と、6階から7階に到達する時間だけが、他の階よりも多いんです。まるで約1階分余分に通過しているみたいに。それでAさんにエレベーターについて図面を調べていただいたところ、あのエレベーターは、まず1階から2階にはちゃんと昇るんですよ。もちろん地上2階にはなにもありません。しかし、実際に地上2階位置まで上昇してから地下1階部分まで降りてくることで、乗客の昇降の感覚を狂わせていたんです」

「ということは、2階のボタンを押すと地下1階、3階を押すと地下2階に行くということか」

青「そのとおりです。全ての工程に、一度地上2階部分まで上昇するという動作が加わっています」

「じゃあなぜ6階から7階も他の階より時間がかかっているんだ?」

A「7階の上に6階があったらどうなると思う?」

「そうか、足音か」

A「ご名答。もし万一、6階で重たいものでも床に落としてみろ。7回の社長室の天井からそんな異音が響いたら、社長室に滞在している人間に上に部屋があることがばれてしまう。その可能性を排除するために、6階と7階の間には約1階分の空間が開いているのさ。だから、他の階に比べ到達に時間がかかるんだ。単純な距離の問題さ」

 

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「これで謎解きは終了か?」

まだまだ事の真相に頭が追い付いていないが、一通り社長のいた場所に関しての答えは出た。私も一度その部屋を見てみたいものだ。

A「あとは細かい点だが、役所からお前の携帯電話に電話したとき、全然繋がらなかったのを覚えているか?電波状況がすこぶる悪いんだよあのビルは。なんていったって地下7階だからな。もう一つ、ビルの背面に見えている2m四方の切れ目だが、3階部分がエレベーターの機械室への入り口で、その他の切れ目はダミーだった。最後に、1階の定礎板に書いてあった建築日をもとに役所に建築図面の写しを請求して、証拠を手に入れたら謎解きはおしまいさ」

そう言ってAはずっと手に持っていた書類の束を私に手渡した。

「父はいったいあんな場所で何をしていたんだろう?」

Aは青年の方を向いて言った。

A「それはきみが仮説立てた通り、扉の修繕だよ。扉に貼ってあったシールのまんまあの部屋は社長の工房だったのさ。ちなみにだが、"清掃中"の扉の奥にはシャワールームが、"廃棄"の扉はトイレに通じていた。工房には簡易ベッドもあったから、たぶん社長があそこで寝泊まりしていたのは間違い無いと思う」

こんな事件があった以上、あそこで生活するのは止めさせないといけないだろう。

 

A「それと警察と消防の件はすまなかった」Aが気落ちした声色で頭を下げた。

「なぜ謝るんだ?きみには感謝しかないと言ったはずだが」

A「本当なら、もっと早く。少なくとも1時間は早くあの扉を開けることができたはずなんだ。それを、俺は決定的な証拠を手に入れるとか何とか言って引き延ばしてしまった。決して推理ゲーム感覚で後回しにしたんじゃないんだ」

「ああ。わかっているよ。父が、もう死んでいると思ったんだろう?二人で扉を開いて、私に目の前で死んでいる父を発見させたくなかった。違うか?」

A「すでに行方知れずになってから24時間は経っていた。何らかの原因で隠し部屋で倒れて出てこられない状況だとしたら、心臓にしろ脳にしろもうダメかもしれないな、と諦めてしまったんだ。本当にすまなかった」

「私から言えるのはありがとう、という言葉だけだよ」

心地よい沈黙。そんなものが存在するなら、この瞬間こそ心地よい沈黙だった。その時、沈黙を破るかすかな呻き声がベッドから聞こえた。

「父さん!」

ベッドに駆け寄り、父の口元に顔を近づけた。何か話したいらしい。

父の眼には生きている喜びの光が感じられ、まっすぐに私の顔を捉えている。口の動きは乏しいが、間違いなく何かを話そうと、伝えようと必死で喉を震わせていた。

僅か数語だったが、父が言いたいことは理解できた。私はその場を離れ、窓際にやってきた。

「そっちのカーテンも開けてくれないか」

そう言って、窓を覆っていたベージュのカーテンを強く引き開ける。青年が反対側のカーテンを壁際のタッセルで留めてくれた。強い日差しが室内に流れ込み肌を差す。外はこんなにも明るく暖かかったのか。

父を振り返り確信した。

 

父も、これですっかり閉所愛好家なんかじゃなくなったらしい。