The Gracie Allen Murder Case
1938年発表 ファイロ・ヴァンス11 井上勇訳 創元推理文庫発行
前作『誘拐殺人事件』
次作『ウィンター殺人事件』
ついに残るはあと1冊となったファイロ・ヴァンスシリーズ。
シリーズのお約束、英語6文字+Merder Caseさえ忘れ去られた番外編のような作品。それもそのはずで、本作はタイトルと同名の実在するコメディエンヌ、グレイシー・アレン(1895-1964)をモデルに映画用に書き下ろした作品だったのだ。
グレイシー・アレンについては、調べてみたところフレッド・アステアやエレノア・パウエルといった稀代の名優たちと共演するなど、「知る人ぞ知る」人物ではなく時代を代表する女優だったようだ。
"Honolulu" ~ Gracie Allen, MGM, Old Hawaii Song/Dance! - YouTube
松野明美氏を彷彿とさせる小柄で特徴的な声と豊かな表情が特徴で、彼女を見ていると自然に笑みがこぼれるような、好人物だ。
本作の評価は、ヴァン・ダイン後期の作品群と同様芳しくないが、もし実在の彼女の個性が本作に十分反映されていたとしたら、本作の評価はガラリと変わっていたに違いないと思う。クールなファイロ・ヴァンスと天真爛漫な少女グレイシー・アレンという対比はなかなか面白そうに思えるのだが……
それでは推理小説としての本作の感想を。
本作を構成する要素はよくできている。
ギャングのボスで正体不明の《ふくろう》と脱獄囚で復讐に燃える《はげ鷹ベニー》、そして悪党どもが集うのは怪しげな《カフェ・ダムダニエル》を中心に物語は展開する。数奇なめぐりあわせで出会ったグレイシー・アレンとヴァンスは、ダムダニエルで親交を深めるが、折も折、事件が発生する。
被害者と事件自体を巡る謎もそこだけを切り取ってみれば魅力的だ。被害者はなぜ現場にいたのか、なぜ殺されたのか、ミステリらしいトリックは使われているし、言葉遊び程度だが読者の盲点を突く仕掛けも用意されている。
カフェ・ダムダニエルの歌手デル・マールの悪女めいたキャラクターも怪しげで良い。グレイシー・アレンが働くのが香水工場ということもあって、香りという手がかりも用意されている。シャーロック・ホームズでいうモリアーティ教授のような巨悪と探偵の直接対決もある。
それでも、本作が面白くならないのは、それら全ての要素がちぐはぐで噛み合っていないからだ。ここまで嚙み合わないと、どこがどう違っていればよいのかさえ全くわからないが、グレイシー・アレンを素人探偵として活躍させる趣向があったのであれば、少なくともグレイシー・アレンと私(ヴァン・ダイン)を組ませて探偵し、ヴァンスは終盤安楽椅子探偵的なポジションでさらっと解決してしまえばそれでよかったかもしれない。映画製作を取ってグレイシー・アレンを主人公にするプロットと、シリーズに重点を置いてヴァンスに解決させるプロットの二兎を追ってしまった形になったのではないかと思う。
以下超ネタバレ
《謎探偵の推理メモ》
本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本書を読んでからお読みください。
登場人物のグループは2つに分けられる。ひとつはカフェ・ダムダニエルを中心とした悪党たち。マーシュ、デル・マール、《ふくろう》、《はげ鷹ベニー》、トファーナ夫妻。
もう一つは、グレイシー・アレンを中心とした一般人。アレン、アレン夫人、ジミー、ジョージ。
死んだフィリップはどちらのグループにも属すため、一見すると、カフェ・ダムダニエルで都合の悪いことを見聞きしてしまったため排除されたかのように見える。
この読者の先入観を終盤まで維持させるために、作者はアレン夫人(フィリップの母親)を使って、一世一代の大芝居をうたせた。フィリップが警察から逃げていたという理由で、死体が息子だと思わせた仕掛けは、正直よくできていると思う。その事実を娘(グレイシー)に告げないよう約束させることで、終盤までこの事実を隠したのも巧い。
まあ、探偵役が死体を誤認するというプロットと、被害者(偽)の関係者であるグレイシーが素人探偵を務めるというプロットが全く相性が良くないのがダメなところ。あとはこの死体誤認のネタがばれてしまった時点で、前述の二つ目のグループの人間たちが嫌疑から外されてしまうのももったいない。香水会社とカフェ・ダムダニエルが不正取引で通じていたとかにすれば、もう少しミスディレクションで引っ張れたのかもしれない。香水会社の人間の誰かと《はげ鷹ベニー》が双子で入れ替わっていた、とかでもいい(暴論)
死体がフィリップではなくベニーだとわかった時点で犯人は、三択になる。デル・マールかマーシュか《ふくろう》
ただ、ベニーが死んだのが別の場所で、それを動かしてマーシュに復讐を企てたデル・マールという一捻りもなかなかうまい。ここではトファーナ夫妻という空気みたいな存在が邪魔をしている。
とにかく面白いところと面白くないところが相殺しあって完全に何も残らないのがすごいところ。いや、ちょっとばかり愚痴をこぼしたくなる部分の方が多いので、逆にちゃんと印象に残るのがなんか悔しい。
さあ最後は『ウィンター殺人事件』
なんとなく今年は読まなさそうなので、来年になりそうな予感。
では!