『虎の牙』モーリス・ルブラン【感想】細密フィルターを通せば面白い

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Les Dents Du Tigle

1921年発表 アルセーヌ・ルパン9 井上勇訳 創元推理文庫発行

前作『(三十)棺桶島

次作『八点鐘』

 

 本作でアルセーヌ・ルパンシリーズに挑もうとする読者はほぼいないでしょうが、少なくとも『813』は読んでおいた方が楽しめると思います。

 

 物語の骨子は、大富豪の二億フランもの遺産を巡る謀略です。ルパンは予期せずその罠の中に巻き込まれてしまう訳ですが、どうもいつものキレというか鮮やかさが失われているように思えます。もちろん、策謀した真犯人に関するサプライズや、犯人を巧みに隠すトリックとミスディレクションはあります。ルパンの忠義な支持者たちや好敵手、ルパンものに必須のロマンスなどぎゅぎゅっと要素だけは詰まっているはずなんですが……。

 

 ルパンが策を巡らせれば巡らせるほど、どんどん深みにはまっていって抜け出せなくなり、とうとうルパン史上最大の窮地に立たされるなど、物語自体のリーダビリティの高さはそこそこあると思います。地を駆け、空を飛ぶ冒険劇も見どころで、舞台を鮮やかに転換させる手腕も見事です。

 

 それでもやっぱりモヤモヤが止まらないのは第二部「フロランスの秘密」中に起こるイベントの重さというか受け入れ難さが原因です。

 ルパンシリーズでは差別がまあ当たり前のように描写されています。もちろん時代が時代なので、こちら側(読者)にしっかりフィルターをかけさえすれば、全然楽しく読むことができるのですが、本書はどうも体が受け付けませんでした。正面から差別という事象の残酷さを突きつけられた気がして正視できなかった、というのが正直なところでしょうか。

 例えば、前作に当たる『(三十)棺桶島』や『オルヌカン城の秘密』『金三角』を見ればもっと明らかなのですが、作中では自国(フランス)における黒人と、敵国の黒人への扱いの差異や、ドイツ人や敵対した国の人種に対する当たりの強さがこれでもかと強調されています。白人が世界に及ぼした文化的・軍事的な影響力の強さがそのまま文字となって滲み出てきて、これが当時のリアルだったんだ、人々の認識の平均値だったんだと突きつけられる辛さもあります。

 それら人種差別に加えて、本作では文化/文明による差別が色濃く出た作品でした。僻地の/未開の地で、自分たちの文化水準(というのも主観ですが)に達していない野蛮な民族(という思い込み)に対する、同情や嫌悪、侮蔑の感情というのがオブラートに包まれず飛び出します。でもこれって少なからず自分の心の中にも巣食っている感情ではないかと思うのです。可哀想に思う同情心がどんどん煮詰まって後に残るのが、自分たちの方が優れているという歪んだ優生思想だとすると、日本に生まれてよかったという安心感すら化学変化してしまう危険性もあるのではないでしょうか。

 あと敵国に対する当時の感情って、今の日本と近隣諸国の間にも燻っているわけじゃないですか。昔こんなことをされた。あの国は野蛮だから。お互いがそう思い合っているような歴史があって、それを端に発した悪感情がふとした時に顕在化して人目につくケースが身の周りでもよくあります。人の振り見て我が振り直せ、じゃないですけど、自分の中に、アルセーヌ・ルパンと同じ歪んだ醜いところもあると認識できるのも、このシリーズを読む意義なのかもしれません。

 あ、もしかして、タイトル「虎の牙」って自分たちの中にある醜い攻撃性のことなんじゃないですか(違う)。

では。