The Four False Weapons
1937年発表 アンリ・バンコラン5 和爾桃子訳 創元推理文庫発行
前作『蝋人形館の殺人』
パリ予審判事アンリ・バンコランシリーズ最終作がついに新訳で登場しました。1958年発表のポケミス版が全然手に入んないんですよねえ。この8年間で第一作『夜歩く』から本書まで全てを新訳化した東京創元社には、感謝しかありません。ぼくねこは、これからも紙の本を買い続けます。
ネタバレなし感想
さて、本書は、あのパリ警察で数々の難事件を解決に導き、極悪人たちをも恐れ慄かせた傑物アンリ・バンコランの掉尾を飾る長編です。パリ時代は、悪魔然とした容貌とその容貌に違わぬ激烈な性格と態度から、犯人だけでなく身内からも恐れられる冷酷非情な探偵でしたが、本書では既にパリ予審判事を引退しており、地主として暮らしながら釣りや狩猟に勤しむ平穏な日々を送っているようです。魔王のような風貌は和らぎ、作中の描写を借りると「そこはかとなくきさくな」「親切そうな目」をした紳士となっています。過去四作での衝撃的な活躍を体験した読者には、いささかショックではあるものの、もしかするとパリ予審判事時代こそパフォーマンスであり、本書のバンコランこそ真の姿なのではないか(作中でも示唆されています)と考えると、“バンコラン最後の事件”に相応しい転換といえるでしょう。
肝心のミステリに移りましょう。まず発端から魅力的です。非日常を追い求め、冒険小説の世界に没入して妄想に耽る弁護士のリチャード・カーティス青年がユニークです。念願のミッションに胸を高鳴らせ、パリへと飛び立つ若人に読者もワクワクしながら、事件の舞台となる黒い森に包まれたマルブル荘へと一直線に突き進みます。
さらに、ここからの展開の速さも流石です。タイトルが示す“四つの凶器”に彩られた死体と、互いに空転し齟齬だらけの証言の数々が構築する不可思議な事件が読者をぐいぐいと引っ張ります。ここにスパイ要素だったり恋愛要素が少しずつ重なり、厚みと複雑さが増していくわけですが、それでもバンコランの推理は序盤で一気に解決へと飛躍します。悪魔超人バンコランの本領発揮と言えるでしょう。
カーが得意とするファルス味たっぷりのユーモラスな記述も序盤に集中しています。時に作中世界と読者との間にある第四の壁を破壊するかのようなメタフィクション記述が登場したり、ポーが創造した名探偵オーギュスト・デュパンを名乗る犯罪研究家の寄稿もその一種です。超個性的な登場人物たちが誰一人端役にならず、それぞれの役割を全うしているのも作者カーの手腕の賜物です。
さらに、冒頭のカーティスの冒険物語を忘れることなく、ある女傑の仕切るダイナミックな賭博場での圧巻の解決編が終幕に花を添えます。
ミステリとしては、様々な要素や手がかり、挿話を盛りに盛り込んだ厚みのある作品で読み応えのあるミステリなのですが、残念なのは、やはり全くもって初心者向きでない点。カーの派手派手しい『火刑法廷』や『三つの棺』に比べると散かり過ぎているし、十八番の怪奇も密室もありません。
カレーで言うと、ターメリック・コリアンダー・ガラムマサラがカーの本領である密室・不可能・怪奇趣味なら、クミンやカルダモンがカーの作品のもう一つの側面である“やり過ぎ”です。このクミンやカルダモンが多すぎなんですよね。何言ってるかわかんないと思うのでもう少し粘ると、カルダモン自体は単体ではめちゃくちゃ爽やかで華やかな良い香りがするのですが、カレーに入れ過ぎるとちょっと邪魔。
本書もカー特有の“やり過ぎ”の分量が少し多いので、うーん入れ過ぎかなあとは思うのですが、ちょっとまって、カレーって結局どう作っても美味しいよね?ってことで、明らかにやり過ぎてるのに、結局は美味しく感じる不思議な現象が起きてるんですよ。人によっては、これは食えねえってなっても、筆者ぼくねことしては「ねえ、でもそれカ(レ)ーでしょ?美味しいよね?」ってなるわけです。
その最たるものが最終盤の賭博ゲームでしょう。まるで男塾の民明書房かのように、脚注で『賭博大全』なる著作※を参照して解説する力業には脱帽というか、改めて帽子を被り直して敬礼したくなる演出です。
※ちなみに『賭博大全』を著したとされているチャールズ・コットンで検索したところ、『釣魚大全』というニアミスな本がヒットしました。これかな?(じゃない)
カーの著作の中では、そこまで名の上がらない作品ではありますが、個人的にはめちゃくちゃ大好きな作品ですし、傑作シリーズの最終作なので、ぜひ一作目『夜歩く』から多くの人に読んでいただきたい作品です。
またカーファンからもバンコランの劣化を悲観し残念がる声も聞こえるのですが、ここも変化を楽しむというか、むしろ今までバンコランに騙されていたという事象を楽しむ意味も込めて、再読・再評価して欲しい作品です。
以下超ネタバレ
《謎探偵の推理過程》
本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本作を読んでからお読みください。
いやもう最初っから最後まで完全にお手上げ状態。
推理というか推測というか勘は、ラルフに扮した男が兄のブライスっぽいこと。兄弟なら似てて当然だ。
しかし、ブライスを始めとして、愛人のド・ロートレックやラルフのアリバイは堅いし、犯人らしき人物が他にいない。
裏で糸を引いているのが、ラルフの婚約者マグダの母ミセス・トラーというのはあり得る。ラルフとマグダの婚約を解消させるために、ブライスにラルフの元愛人を殺させたか?何もそこまでするとは思えないが。
中盤に差し掛かって判明した容疑者Xの正体がマグダだったとは驚かされた。
茶色のレインコートの男が犯人だとして、もう一人のXという人物が誰なのか……と思っていたらマグダ!こんなストーリー思いつくわけがない。
その後に明かされる驚愕のトリックしかり、カーの巧みなストーリーテリングに頭がくらくらする。
つまり、茶色のレインコートの男は、偶然の事故によって計画とは違う方法でローズを殺してしまった。しかし、その後男はマグダに罪を着せようとしている。これだとブライスやミセス・トラーの共犯説は薄まってしまう。
降参。
真相
ブライス・ダグラス
読み終えて改めてタイトルを見て気づいたのだが、本書は「Four False Weapons」つまり「四つの“偽の”凶器」が登場するミステリだった。邦題がただの「四つの凶器」だったので、四つの中に本物の凶器がある、もしくはそれらを複合させた犯罪という先入観が脳内に居座っていた。
四つの凶器は、入り組んだ物語が生み出した残滓で、関係者たちが意図せず持ち込んだ遺留品で、ただの常備薬だったのだ。この時点で、多くの偶然や運が重なって構成されていることは明らかで、複雑な物語をすっきりと整理し、他に類を見ない殺人事件を創り上げるカーの剛腕が炸裂するのを予見できたはずだ。
偶然の要素が多く、リアリティには欠けるきらいがありますが、芸術的な犯罪って案外運だとか幾重にも重なった偶然の産物みたいなこともあって、これはこれで全然アリなんじゃないかと思います。むしろ偶然の痕跡はそこここに明示されているので、フェアプレイ精神は守られているかと。
もちろん舞台設定から、解決編の演出まで手抜きが全く無いので、海外ミステリを読む醍醐味がちゃんと詰まっています。
では!