『ヘラクレスの冒険』アガサ・クリスティ【感想】元ネタを知らずとも十分楽しめる名作

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The Labours of Hercules

1947年発表 エルキュール・ポワロ 田中一江訳 ハヤカワ文庫発行

前作『ホロー荘の殺人

次作『満潮に乗って』

 

物語は、私立探偵業の引退を目前にしたポワロのアパートから始まる。引退後はカボチャ栽培に勤しむと告げるポワロに、バートン博士はできっこないと応酬する。次にバートン博士は、ポワロの名前”エルキュール”を持ち出し、ポワロの風貌や経歴と英雄ヘラクレスの伝説”十二の難業”を比べて、ポワロを挑発した。「きみの仕事は愛の難業だ。引退などできるはずがないね。」こうしてポワロは、引退の前にヘラクレスの十二の難業にちなんで、現代のヘラクレスに相応しい十二の事件に挑むことを決めたのだった。

 ヘラクレスの十二の難業をまったく知らない筆者でも十分楽しめたので、そこらへんはあまり気負わずに読んでよいのではないだろうか。

 霜月蒼氏の『アガサ・クリスティー完全攻略』では、旧版のハヤカワ・ミステリ文庫『ヘラクレスの冒険』にのみ、訳者による「ヘラクレスの十二の難業」の簡単な紹介が載っているのだという。ちなみに旧版は1976年発行、新訳版は2004年初版のものだ。

 以下、各話感想だが、ちょうど手元にこんな本があったので、十二の難業についてもざくざくっと紹介しながら書いてみようと思う。

 

 そもそもヘラクレスはギリシャ神話における最高神ゼウスの隠し子。ゼウスの正妻である女神ヘラに憎まれ、彼は虐げられ迫害を受ける。卑劣な王エウリュステウスが命じた十二(最初は十)の難業もヘラクレスを亡き者にしようという策略の一つ。

 

各話感想

ネメアのライオン

最初の難業は、ネメアという広い森に棲むどんな武器でも傷一つ付けられない強靭な皮膚をもったライオン退治。矢や剣が意味をなさないので、最後はプロレスで絞め落とした。その後ライオンはしし座となり今も私たちを見守っている。ライオンが英雄の象徴みたいになったのはヘラクレスのこのエピソードがあったから。

 ライオンのように雄々しいペキニーズ犬が登場する。犬の誘拐と不可解な脅迫状、そして強かな大富豪。様々な要素が融け合って一つの画を構成しているはずなのだが、解決編までどうも見えにくい。ドイルでいうところの『赤毛組合』のような摩訶不思議な犯罪を扱った作品か……と思いきや終盤でガツンとヘラクレスに殴られる。いや首を絞められる。

 誰も傷一つつかず/つけられず/つけさせず解決してしまうポワロの剛腕が素晴らしい。

 

レルネーのヒドラ

冥界へと繋がる沼地の番人である九つの頭を持つヒュドラ退治。ヘラクレスは、甥のイオラオスとともに退治にむかうが、ヒュドラの首は切っても切ってもすぐに生えてくる。そこでイオラオスが切った首の傷口を焼いて再生を止め、最後に残った不死の首は岩の下に埋めた。

ちなみに「イオラオスに手伝ってもらったからクリアしたことにならない」とエウリュステウスが難癖をつけたので、一つ難業が増える。

 切っても切っても再生するヒドラの首のように、人の噂や猜疑は留まることを知らない。今回は、妻の死が毒殺かのように疑われた医師にポワロが知恵を貸す。

 事件の本質を見抜くポワロの慧眼が効果的に機能している秀作。ポワロの専属運転手のジョージが活躍する。

 

アルカディアの鹿

狩猟の女神アルテミスの馬車を曳くために黄金の角を持つ鹿を捉えるミッション。めっちゃ脚が早いのでヘラクレスは1年間追いかけ続けようやく捕まえた。今なら動物愛護の観点から許されない。

 雪の降りしきる中、車の故障によって僻村に滞在することになったポワロは、自動車修理所の青年から行方不明になった女性の捜索を依頼される。失踪したアルカディアの鹿を追うポアロだったが、鹿は彼の到達できない場所に行ってしまったと知る。果たして彼女の身に何が起こったのか。

 クリスティ十八番の欺しのテクニックが冴えわたる名作。ロマンチックなオチも見事。

 

エルマントスのイノシシ

人を喰う化猪を捕まえる任務。任務自体は至極簡単だったが、ケンタウロス族との酒の席でお乱れになったヘラクレスは、猛毒の矢をあろうことか武術の師匠ケイロンに射ってしまい、彼は死亡。彼は死亡した。

 スイスを旅行中に地元警察から急遽捜査要請を受けたポワロ。どうも警察当局は国際的な犯罪者の一味のしっぽを掴んだらしい。

 短い物語の中でクローズドサークルを作り上げたうえで、巧妙に犯人を隠すクリスティの技量に驚き入る。手品のネタは明らかなのに、隠されたカードの行方は種明かしの瞬間までわからない。クリスティのシャープなトリックは短編でこそ真価を発揮することを示す一編。

 

アウゲイアス王の大牛舎

3000頭もの牛が住んでいるのに30年間一度も掃除されたことが無いという牛糞まみれの牛舎を綺麗にする簡単なお仕事。難業だってのにヘラクレスは、「1日で綺麗にしてやるから牛をよこせ」と報酬を要求する。しかも二つの大河の水を引くことで、牛糞は流れ去ったものの、河の流れが強引に変わったので洪水が頻発する事態に。この惨事とヘラクレスの難業に向き合う姿勢を重く受け止めたエウリュステウスはまたもや難業を一つ増やす。よく一つで済んだと思う。

 政治家の不正をもみ消すという名探偵らしからぬ任務を請け負ったポワロだが、敵はゴシップ誌の発行責任者。簡単な交渉で落ち着く案件ではなかった。

 ゴシップ誌の特性や人の噂の性質、なにより人の本質を見抜くクリスティの能力があってこそ生み出せた短編。今の世も(政治も)同じことを何百回と繰り返しており、不変の真理が本作には描かれている。

 

スチュムパロスの鳥

田畑を荒らし人々を襲うスチュムパロス(ステュムパーリデス)という怪鳥たちの退治。巨大な鳴子を製造し、その音に驚いて飛び立ったところを射ち倒した。難業ではない、これは狩猟。

 将来有望な青年が、静養中のホテルで凶兆の鳥と遭遇するお話。

 ポワロの登場は遅く、解決も唐突だが、それもそのはず。物語のネタはあからさまだし、犯人も見え見え。難業ではない、これは狩猟。(十二の難業に関連付けているのは上手い)

 

クレタ島の雄牛

美しくも凶暴なクレタ島の雄牛を捕まえる難業。またもやヘラクレスは異種格闘技戦で雄牛を捕まえる。雄牛は今で言うイケメンすぎる〇〇で、こいつの子どもがミノタウロス(牛頭人身の怪物)。

 一族代々が精神病を発症するという異常な歴史を持つチャンドラー家の青年に恋する女性からの依頼。明らかに異常者としか思えない行動をとる青年を前に、ポワロは慎重に捜査を進める。

 ネタは小粒だが、"十二の難業"に絡めるところで評価が大きく跳ね上がる。ただこの話は、その元ネタのところでちょっと思うところがあるので、最後に追記する。

 

ディオメーデスの馬

正しくはディオメーデス王の獰猛で巨大な人喰い馬(4頭)。ヘラクレスは逆にディオメーデス王を喰わせることで馬をおとなしくした。その後馬たちはオリンポス山に放たれたらしいが名もなき野獣に殺されたらしい。オリンポス山こわい。

 本当によくできた名作だと思う。うら若き女性たちをクスリ漬けにして暴利を貪る人食い馬を追い詰める物語。

 犯罪の手法やトリックで誤魔化したくなるところを、純粋なフーダニットのみで読者を翻弄するクリスティにまたもや脱帽。手がかり配置も完ぺき。

 

ヒッポリュテの帯

アマゾネスたちの女王ヒッポリュテの腰帯をもらう話。ヒッポリュテはヘラクレスの肉体にメロメロでアマゾネスたちと子作りをすることを条件として腰帯をわたすと約束する。しかし、ヘラクレスを憎む女神ヘラの流言によってアマゾネスたちとヘラクレスは戦いになり、最終的にヘラクレスはヒッポリュテを殺害。腰帯を強奪する。ヘラクレスおい。

 消えたルーベンスの絵画を探すお話。久々にジャップ主任警部も登場する。

 クリスティのお得意の手法が姿形を変えてまたもや躍動する。15歳の少女や列車、女学院という要素が、ミステリに巧妙に組み込まれている。伝説のように血腥い話はなく、最後に作者クリスティからポワロに御褒美が用意されているのが楽しい。

 

ゲリュオンの牛たち

ゲリュオンの飼う牛を強奪するお話。番犬である双頭のオルトロスを殴り殺し、追いかけてきたゲリュオンをも殺して奪った。ちなみにゲリュオンは三つの頭と六つの腕、六つの足を持った重装戦士。ヘラクレスの天下無双な強さがわかるがヘラクレスを嫌いにもなる。

 最初の一編『ネメアのライオン』の登場人物が再登場する。新興宗教にはまった友人を救い出して欲しい、というのが今回の依頼。

 クリスティ劇場が大賑わいでとにかく楽しい。三面六臂の怪物のごとき悪人を、どうやって退治するのか、ポワロの頭脳が冴えるが、真の英雄は他にいる。

 

へスぺリスたちのリンゴ

二つ説があるが好きなのはこっち。

ヘスペリデスの園に隠されているとされる黄金のリンゴを取りに行くヘラクレスだったが場所がわからない。そこでヘスペリデスの父アトラスにリンゴを取りに行くように頼むがアトラスはゼウスとの戦いで敗れ天空を支える務めを果たさねばならなかった。そしてそれが凄く辛かった。そこでアトラスはリンゴを取ってくる間だけヘラクレスに天空を支えてくれと交代を志願した。アトラスはリンゴを取ってきたが、もう天空を背負いたくない。ヘラクレスをそのままに逃げようとするアトラスだが、ヘラクレスは言った「ちょっとこれめっちゃ重いんだけど、どうやったらもっと背負いやすくなるかちょっとやってみて教えてよ」こうしておバカなアトラスは再び天空を背負うことになったのだ。

ちなみに人間の頭蓋骨を天空に見立てて、頭蓋骨を支える第一頸椎(環椎)をアトラスと言う……のは有名な話(でも言いたい)

 財界の権力者で美術品収集家でもあるパワー氏の依頼で、ポワロがエメラルド製のリンゴが装飾された酒杯を探しに行くお話。ポワロには珍しく、世界を股にかけた冒険に出かける。

 多少説教クサいところがあるが、物語の帰結には満足。一方でミステリと呼ぶには抵抗がある。

 

ケルベロスの捕獲

冥界の番犬三つ頭のケルベロスを捕獲する難業。捕まえてどうする気だったのかは謎。ちなみにケルベロスは美しい音楽と甘いお菓子に目が無い。かわいい。

 ところどころに冥界を象徴する小道具や舞台が用意されているのが巧い。〈地獄〉という名のナイトクラブで起こる犯罪捜査なのだが、ポワロの目的が少しずつ逸れていくのも面白い。やはり彼もヘラクレスか。

 ちょっと展開が複雑で何が謎なのか混乱させることがあるが、ポワロやミス・レモンのキャラクター小説として完璧な出来なので、ファンには見逃せない一作。

 

おわりに

 霜月蒼氏の評論では、ヘラクレスの十二の難業を知っていればより楽しめる仕掛けがあると書かれているが、いくつかの短編では、あまりに元の物語を知ってしまうと、トリックや展開を予想しやすくなってしまう弊害もあると感じた。もちろん知っていればなお楽しめるのは同感だし異論もない。

 上の感想では極力、元の物語をざっくりと、ミステリの楽しみを損なうことが無いようにかなりデフォルメして書いたつもりだが、それでも至らない点があればご容赦いただきたい。ページ内のネタバレフォームで報告していただければ即時修正するつもりだ。

では。