『ホロー荘の殺人』アガサ・クリスティ【感想】傑作だけど好きにはなれない

エルキュール・ポワロ 中村能三訳 ハヤカワ文庫

 

粗あらすじ

長閑なホロー荘に集った、秘めた想いを抱えた登場人物たち。彼らが演じる悲劇を最前列で鑑賞したのは、名探偵エルキュール・ポワロだった。死者が口にしたダイイングメッセージが指し示すのは犯人かそれとも…

 

    事前に誂えたような劇場型の犯罪に、クリスティお得意のロマンスが加わること、それ自体は彼女の作品の中でも珍しい設定ではないのですが、全体的にドロドロとした複雑で険悪な雰囲気に満ちているのは異色です。唾棄すべき極悪人を扱った作品であればまだしも、それらとは一味違った悪意が感じられ、とにかく気持ちの悪さ、ぎこちない坐りの悪さを感じてしまいます。

    頁の大半が登場人物たちの心境や相関の描写に割かれ、それらがミステリを解くための重要な手がかりになっているのもいつも通り。ただ、登場人物の多くに好感が持てないので、読むのにはかなりの精神力が要されるのも事実です。

 

 

    欺しの天才であるクリスティは、読者の思考を逆手に取ったトリックを用いるのが常ですが、これは推理小説家としてのテクニックです。本作では、推理小説というよりも普通小説として、人物描写において読者の予想を裏切るような、また、求めるもの(ハッピーエンド)を敢えて与えないような、ある種の意地悪さが滲み出ているような気がしてなりません。

 

    ミステリを構成する要素を分解してみると、ダイイングメッセージに始まり、不可能犯罪偶然の要素を巧妙に絡めた重厚な作品だとわかります。

    ただスピード感が全くなく、探偵ポワロの指揮力も皆無、とくれば、知的遊戯としての推理小説も楽しみたい読者からしてみれば苦痛そのもの。登場人物へ共感できないことが多いため不満(というかモヤモヤ)が残る一作となってしまいました。

 

    以下余談です。

    クリスティの作品はある種のスターシステムを用いていると思っています。名前や容姿が違っていても、生まれ持った性質や思想が似通った人物が作品を超えて登場します。

    これを、自分はクリスティ劇場と(勝手に)呼んでいるのですが、彼、そして彼女たちは作品毎に立場を語り手、被害者、犯人、とコロコロと変え、見事に役を演じます。とはいえ全員が同じような行動をとり、同じ結末に到達することはありません。

    クリスティは、彼らの行動を人間の多面性を加味してパターン化し、それを登場人物の数だけ組み合わせ巧妙に物語を作り出します。ひとつの事象に対し、ポジティブにとらえるのかネガティブにとらえるのか、ロマンスで言えば潔く身を引いて諦めるのか、それともあらゆる手を用いて欲望を実現させるのか。どちらにも転び得るのが人間で、その人間らしさの複雑なコンビネーションが騙しのトリックの一つなのではないでしょうか。

    だからこそ、読者の人生観や恋愛観が彼らとビタッと合えば、登場人物たちの行動が透けて見え格段に難易度が下がる一方、自分が思うパターンの逆を突かれたときにアッと驚くサプライズに繋がるのです。

    さらに、これは作品の好き嫌いにもつながります。何が言いたいのかと言うと、自分が本作には合わなかった、ということ。少なくとも登場人物の行動に同調できず、むしろ嫌悪感が募る時点で、かなりしんどい読書でしたし、オチの性質上の問題もあります。

    間違いなくクリスティの作品群の中でも傑作の部類に入るハイクオリティな作品ですが、本作を語るのには、まだまだ自分はおこちゃまみたいです。

 

 

    今回≪謎探偵の推理過程≫はお休み。

    さんざんネガティブなこと言った後のフォローになるかわかりませんが、本作にはちゃんと「救い」も用意されています。決して好感が持てるキャラクターがいないわけではありませんし、コメディ要素も用意されています。

 

では!