『血の収穫』ダシール・ハメット【感想】小柄で肥った中年男に憧れる

1929年発表 探偵コンチネンタル・オプ1 創元推理文庫発行 田口俊樹訳

 

 

 本書は、ハードボイルド推理小説のスタイルを確立させたダシール・ハメットのデビュー作。

 主人公はコンティネンタル探偵社の探偵“私”。作中では、彼の本名を含め年齢や経歴すら明かされないが、コンティネンタル探偵社のオペラティブ(≒調査員)であることからコンティネンタル・オプと呼ばれている。以下当記事でもオプと呼ぶ。

 

 物語は、悪党が溢れ、不正が蔓延する街パーソンヴィルにオプが訪れるところから始まる。“採鉱のせいで汚された醜いふたつの山の醜い山間に鎮座する、人口四万の醜い市(まち)”という表現からとんでもないところに来たと思わせる鮮烈な文章だ。無精髭をたくわえ、制服のボタンが欠けている警官や、街を私物化する権力者など、殺人などいつ起こってもおかしくない不穏な空気が満ちている。

 暗雲たちこめる怪しい雰囲気と違い、ストーリーの構図はシンプル。甘い汁を吸いたい悪党と、それを根絶やしにしたい実業家。この対立する勢力の中で、利権に目が眩んだ業突く張りの警察署長や、軽妙で怖いもの知らずの賭博場経営者など魅力的な人物たちが、血で血を洗う闘争を繰り広げる。

 メインの殺人事件がひとつあって、その後も裏切った者と不運な者が死に続ける無情な世界で、オプはただ、ポイズンヴィルとも揶揄される街に混入した劇毒として、事件を引っ掻き回し、混乱を助長させてゆく。そして、追い詰められ進退窮まった彼らは自ずと馬脚を露し、かつて街で起こったひとつの事件の真相が明らかとなる。しかし、その光明ですら事件の鎮静化には繋がらない。オプ自身が容疑者の一人となって以降、誰が死んで、誰が生き残っているかもわからない混沌とした街で、オプはただひたすらに生き残ろうとあらゆる手を尽くし駆け回る。

 

 生き残るためには殺人も辞さないオプに、ヒーロー然とした要素はほとんど無いが、激烈で緊張感あふれる活劇を生き残り、勢力の潮流を細やかに読むタフな男の生き様には、同じ男として憧憬の念すら感じられる。

 また、真実のみを簡潔に書く、というハードボイルドを体現する文体もまた良い。本書では、キラキラと輝く探偵が、滑稽に見えるほど大仰に犯人を名指しし、大団円を迎えるなんてことは全く無い。

 一見すると、ただの探偵の報告書かのような簡潔な文体だが、本書の読書体験を済ませた人なら感じ方は変わるだろう。文章を通して、読者自身がポイズンヴィルに乗り込み、銃撃戦を生き残り、数多の死を看取ってきたはずなのだから。本書を読み終えるころには、簡潔でシンプルな書き口は、切れ味鋭いクールな文体へと変わり、ただの読者から物語の生き証人へと変貌していく。

 読者の創造力や推理なんてものも必要が無い。コンチネンタル・オプが容姿端麗で筋骨隆々の元軍人ということも無い。ただの小柄で肥った中年男なのだ。この男のどこにこれだけの生命力/精神力が詰まっているのか。ハードボイルド的文体の斬新さはもちろんだが、1929年という推理小説黄金時代の中で、唯一無二のオプという男を生み出したことこそ、ハメットの功績なのかもしれない。

 

 

 ハードボイルドを語る口を持ち合わせていないのが残念だが、これからも少しずつハードボイルド小説に手を伸ばしてみようと奮起させるには十分すぎる作品だった。

 これからハードボイルドものを読んでみようかな、と思っている人にもオススメしたい。十中八九「ハードボイルド、初めてだけどつまらなかった」なんてことにはならないだろう。

 

では。

 

血の収穫【新訳版】 (創元推理文庫)

血の収穫【新訳版】 (創元推理文庫)