生産性より弱産性【メリット】

見るからに出オチ感満載のスタートをきったわけですが、やっぱ流行にはノッていくスタイルでお送りしている当ブログですから、触れないわけにはいけません。

※ちなみに今回一番の問題になっている差別事案にはほとんど触れていません。あしからず。

 


いけいけわたし full ver.

 

 

この歌大好きです。

好きは好きなんですが、歌詞を見ると、ちょっと今の時代にそぐわないトコロもややあって、これはこれでちょっと火が付きそうな気配がないでもありません。それに最初の歌詞

ココロとか髪に聞こう

気持ちよく生きてるかって

なんじゃこれ。だいぶ髪に強引につなげるあたりも好きです。

 

いやいや、違います。

 

 

生産性の話

名だたるはてなブロガーがこぞってこの「生産性」についてエントリーしているので、便乗して何か書こうかと思ったらこの体たらく。

でも、どっかでこの「生産性」というワードを見た気がしたので、ちょっと調べてみるとすぐ出てきました。コチラ。

www.bokuneko.com

 

生産性がなんだ!そんなの気にするな!という記事を書く予定だったのですが、思いっきり生産性を意識していたので、全部が吹っ飛びました。さすがインフィニティストーンを全部揃えただけある…サノス恐ろしや。

 

 

えー…生産性より弱産性です。

生きとし生けるものに「生産性」を求める、というあんぽんたんな考えはちょっと横に置いておきます。

さて、我々は何かを産み出しているのでしょうか。まず我々は生きていくうえで、何かを食べ、そして、うんちを出します。入れて出す、を繰り返して生きているわけです。これは無限ループです。

これが、逆にうんちを入れて、口からお味噌を出す、とかになれば、我々はこの上なく画期的で革新的かつ超常的生産性を持つわけですがそんなことはありえません。

 

子どもを産むということが生産性にあたるか、よくわかりませんが、精子と卵子がドッキングしてなんやかんやしてポンっと子どもが産まれる現象は生産ではなく出産です。某議員さんはそれをものすごく薄いオブラートに包んだつもりで、生産性と言ったのでしょうが、言いたかったのは出産できない人間にはなんなたかんたらってことです。

ああ、またつまらぬ、あんぽんたんなことにツッコンでしまった…

ええ、とにかく出産というのは大変です。男にはたぶん想像を絶する痛みを12時間以上も絶え、「鼻の穴からスイカを出す」というインドのビックリ人間でもやらないくらいの苦行を絶え、命を懸けて命を絞り出すのです。これは生産ではありません。出産です。また女性は、出産後に様々な影響から骨密度が低下し骨粗鬆症になることもあります。主な原因はホルモンバランスの乱れや、授乳があるそうです。

つまり、子どもを産み育てるということは、直接母親の血肉を分け与える行為にほかなりません。女性・男性に関わらず、親は子が生まれてから約1年は眠れぬ毎日を送り、体力・精神力を削ぎ落す日々が続きます。それは、何か0から新しいものを生産することではなく、文字通り自分の一部分である遺伝子を分け与え、一部分である血と肉を注ぎ込み、その大部分を使い全身全霊をかけて守り育む生命の営みです。

ただそんな尊い営みさえ、ドヤ顔で何か新しいものを生産した、ということではなく、自分を少し削って渡して繋いでいく行為でしかありません。

 

赤ちゃんってなにするかわかります?おっぱい飲んでうんちするんですよ。で、我々親はそのオムツをただ捨てて、自分たちはご飯を食べてうんちするだけです。これは生産ではありません排泄です。

そういえば、嫁は息子が乳児のころにオムツにしたうんちを見て、さも神々しそうに「ねえ見て!かぼちゃみたい!かぼちゃの臭いがする!ほぼかぼちゃ!」って言ってたけど、むちゃくちゃ臭かったです。赤ちゃんが飲んだミルクがカボチャになって出てきたら、それはものすごい生産性!と言うかもしれないけど、そんなことはなかったし、それはただの排泄だから、ようするに、なんだかわかんないパワーワードに振り回されて、一部の権力者の利己的な目的のために利用されるのは勘弁って話です。

 

 

えー…弱産性のゼロパワーワードに何も触れず終わっちゃいそうですが、最後に一つ。

自分たちに何かを0から生産する能力がないってのがわかった以上、もう話は終わったも同然。

産めよ増やせよって時代がとうに過ぎ去り弱まった今、ファイナルファンタジーⅨの主人公ジタンのあの名言が脳内に響き渡りました。

 

ジタン「ビビ…どうしたんだ?寝ないと明日がつらいぜ。」

 

ビビ「…考え込むのをやめようとするんだけどあたまの中、ぐるぐるしちゃうんだ。考えすぎるのはよくない、っていうジタンの言葉はわかったつもりなのに…」

 

ジタン「そりゃ、オレはオレでビビはビビだからさ。それでいいんだ…ムリにあわせることなんてない」(中略)

 

ビビ「でも、ボクはやめたいんだよ…ぐるぐるしたくないんだ…」(中略)

 

ジタン「オレたちがどんな過去を背負い、どんな悩み、希望を持ってたとしても…できることといったら行動“する”か“しない”を選ぶくらいなんだ…千差万別の悩みに対してできることは二通りだけってことなんだぜ?頭かかえて当然ってことさ!

 

…それでもぐるぐるしないようにするためには、行動“する”ときと“しない”ときの基準を決めておけばいい。

オレは自分の手が届くところは守りたい、って思ってる。できてるかどうかは別だけどそれが、オレの基準なんだ。」

 

少し省略してしまったところもありますが、物語を知らなくてもだいたいはわかる流れだと思います。

自分が人工的に作られた生命だとわかり、今後どうしたらいいのか悩むビビに対し主人公のジタンが告げるアドバイスです。

この一連の会話の中で次々と飛び出す名言は、自分が生きていくうえでどんなシチュエーションにもズドンと響きます。

 

この章の冒頭でも言いましたが、めよ増やせよって傾向(質)はすでにまっています。=あっ、弱産性!!

 

時代の流れは、お好きなように…一人一人が自分の世話を自分でして生を全うするそんな生き方に変わってきた気がします。だからこそ、誰かを助けたり支えたり、子供を産んだり養子縁組を結んだり、そんな選択は人それぞれ、かつ各自のキャパシティの中でやればいいのです。

権力と発信力を持った誰かに何を言われようと「自分の手の届くところ」でいいんですよ。

しっちゃかめっちゃかですが、これから先、生産性がうんぬんかんぬん言い出す輩の言うことは全部無視!ってことでいいと思います。

 

差別事案に関してはねえ…正直闇が深すぎて、どこからその解決の糸口を見出せばいいのか、まったくわからないので、今日は降参しますが、自分がそんな偉そうなこと言えるような立派な人間じゃないのでね。薄っすらとではあるけど、何かしらの「これって差別かもな」みたいな感情を抱くときありますからね。

だから、ジタンのように、そんな事象に直接遭遇したときの対応基準だけはジタンのように設定したいです。絶対に加担“しない”こと、“自分の手の届くところ”で注意“する”こと。

 

“できるかどうかは別だけど”

 

では!