H.M.S.Ulysses
1955年発表 アリステア・マクリーン著 村上博基訳 ハヤカワ文庫NV発行
またとんでもないものを読んでしまった。自分のDNAの中には絶対にないフレーズが溢れだす。死にゆく男たちの祈りとか、生から死までを司り、地獄の業火をも呑み込む暴乱の海、とかよくわからないけど硬派に聞こえる字句をつい使いたくなる。お前の中にもまだ鬣は生えていないが若獅子が眠ってるんだぞ、と鼓舞してくれる熱さがある。世界に君臨する大物The Manに反旗を翻し、義気を奮い立てて立ち向かう勇気をくれる。久々にエミネムを聞きたくなる。読了後すっごい興奮したけど、あえて妻にはその感動/興奮を伝えない、みたいな原因不明の強がりがある。
アリステア・マクリーンという男
さて、本書は海洋冒険小説の大家アリステア・マクリーンの処女作である。
アリステア・スチュアート・マクリーンは1922年スコットランドのグラスゴー生まれ。1941年に19歳でイギリス海軍に入隊し、本作に登場するユリシーズ号と同じ軽巡洋艦に乗艦。実際に北極海での作戦行動に携わったという。また、第二次世界大戦中に日本軍の捕虜になったこともあったようだ。
終戦/除隊後は教師として働きながら、自身の経験を活かし海を題材にした短編小説を書き始める。転機となったのは1955年に発表された本書『H.M.S.Ulysses』。自身の真に迫った体験と綿密なリサーチに基づく精巧な描写、そして無情にも思える物語はイギリスでたちまちベストセラーとなり、専業作家としての第二の人生が始まった。
感想
冒頭から「所詮、私たち(読者)も陸(おか)の人間なのだ」と指を突きつけられる辛さがある。そもそも海軍上層部のお偉いさんと乗組員たちの会話が、何のことを言っているのか全く分からないからだ。巡洋艦ユリシーズがなにか不名誉なレッテルをはられていることはぼんやりだがわかる。激務に次ぐ激務のせいで、ユリシーズ号の乗組員たちの心身はともに限界を迎えつつあることもわかる。大局を鑑みるに、誰も安息を得られないこと、すぐさま次の任務に身をゆだねなければならないこと、仮に反意を示そうとも無駄な足掻きだということを思い知らされる。それでもなお読者は、この現況がいかに過酷―今となっては過酷という単語すら空虚に聞こえるが―なものか真に理解しているとは言えない。心をざわつかせる不穏な空気と、二度と生きて大地を踏みしめることができないのではないかという悲壮感/焦燥感を抱いたままユリシーズは大海原へと出立する。
これは自分だけなのかもしれないが、「冒険」という響きに、浮き立つような楽しさやエキサイティングな高揚感をずっと感じてきた。主人公はどんな危機に瀕しても、絶対に死なないし、最後には金銀財宝/名声・名誉を腕いっぱいに抱えて、華々しく帰還する。そんな似非冒険を夢想してきた。しかし、本書を読んで「冒険」の神髄を思い知らされる。
そもそも「冒険」とは、危“険”を“冒”すと書く。危険な状態になること/成功の可否が確かでないことを承知のうえで敢えて挑戦してみることを指す。100人が挑んで半分が成功する、半分は失敗する、そんな意味をなさない文字の羅列ではない。100人が挑んで100人全員が死ぬかもしれない。これが冒険なのだ。そして、本作は真の意味で“冒険小説”である。
文字通り瞬く間に変貌する天候、この世のものとは思えないほど荒れ狂う海、人間の生存限界を軽く超える気候、一瞬の油断につけ込み破滅へといざなう敵、これらは頁を進めるごとに激しさを増し、残酷に生存の確率を削り取ってゆく。地獄の中では、生きることこそ最大の責め苦で、死こそ慈悲深い救済なのだ。
そんな残酷な描写が続く作品なのだから、さぞ読みにくく、とっつき辛い作品かと思われるだろうが、そんなことは全くない。たしかに語られるエピソードの中には、拳をぎゅっと握りしめてしまうような、体を強張らせるようなものも幾つかある。しかし全編にわたって描かれるのは、ユリシーズ乗組員たちそのものである。
年端もいかない少年兵から、海のことを知り尽くした歴戦の戦士まで、全ての乗組員がユリシーズに命の手綱を握られている。逆もまたしかり、一人ひとりの乗組員たちの獅子奮迅の働きこそ、ユリシーズが荒波を砕き、敵の防衛線を突破するための原動機なのだ。そして、その歯車一つひとつの動き/役割を丹念に描き、甘ったるさや荒唐無稽な英雄的人物などの贅肉を極限まで削ぎ落すマクリーンの筆致は凄まじい。
500頁に迫ろうかという雄編だが、目次を見てもわかるように、ユリシーズ号の受難は僅か七日間の出来事だ。嵐に次ぐ嵐、敵に次ぐ敵、という責苦に体が重くなるような停滞感を常に感じながらも、エピローグで人は再び大地を踏みしめる。
これは絶望なのか、それとも希望なのか。最終的な判断は読者に委ねられるだろう。しかし、多くの男たちにとって、赦しは得られたのではないか。最後の一文を読んで、陽光の温もりのような安心感、ずっと背負ってきた荷物を誰かがすっと持ってくれたような解放感を感じた時、 この不思議な感動こそその証拠に違いないと思った。
では。