『評決』バリー・リード【感想】正しさを求めた男たちの英姿

1980年発表 ダン・シェリダン1 田中昌太郎訳 ハヤカワ文庫発行

 

バリー・リードという男

 バリー・クレメント・リードは1927年カリフォルニア生まれ。第二次世界大戦にも従軍し、終戦後はボストンカレッジで法学の学士号を取得し弁護士としての道を歩み始めます。

 リードが専門としていたのは医療過誤や人身傷害などの訴訟で、その献身的な弁護活動が認められ、優れた犯罪防衛擁護活動を行った弁護士に送られるクラレンス・ダロウ賞(アメリカ史上最高の弁護士クラレンス・ダロウに因んだ賞)を受賞したこともあったようです*1。また、1978年には当時史上最高額の評決を勝ち取った医療過誤事件を担当するなど高名な弁護士だったことがわかります。そして、その時の経験を活かして書かれたのが本書『評決』(1980)で、アメリカでは瞬く間にベストセラーとなりました。さらに1982年にハリウッドでポール・ニューマン主演で映画化されると、アカデミー賞の作品賞を含む5部門でノミネートされるなど世間の注目を大いに集めた作家でした。

 日本での翻訳状況も進んでおり、『評決』を始めとする弁護士フランク・ギャルヴィンもの2作と、同じく弁護士ダン・シェリダンもの2作がハヤカワ文庫から発行されています。

 

長編リスト

『評決』The Verdict(1980) 田中昌太郎訳 ハヤカワ文庫※本書

『決断』The Choice(1991) 田中昌太郎訳 ハヤカワ文庫 弁護士フランク・ギャルヴィン2

『起訴』The Indictment(1994) 田中昌太郎訳 ハヤカワ文庫 弁護士ダン・シェリダン1

『疑惑』The Deception(1997) 田中昌太郎訳 ハヤカワ文庫 弁護士ダン・シェリダン2

 

 

ネタバレなし感想

 まず最初に、本書を手に取る切欠になった海外ミステリ・レビューに深く感謝したい。kikyo氏の情緒豊かで心に訴えかけるレビューは、まるで直接顔を合わせて本を手渡しされているかのような熱量と感動、そして勢いをもって書かれている。

kikyo19.hatenablog.com

※当ブログの記事を含めて、物語の筋が一定明かされているので、敏感な方は注意。

 当記事でkikyo氏の記事を超えるエネルギーを発する自信は全くないが、素晴らしい作品に出会えた感謝と感動を記事にも込めて書きたいと思う。

 

 

 

 主人公のフランシス・ザヴィアー・ギャルヴィンは、放埓な行動の代償として弁護士生命の危機に陥っている酔いどれの弁護士。ロー・スクールでは優秀な成績を収め、才覚ある弁護士として評価もされていたフランクだったが、今は見る影もない。そしてそんな追い詰められたギャルヴィンが復活を懸けて引き受けたのは、カトリック教会所有の大病院で起きた麻酔事故によって、植物状態と化した女性を巡る訴訟だった。

 法廷ミステリとしての魅力は言わずもがな、大病院側を弁護する海千山千の敏腕弁護士コンキャノンとの丁々発止の論戦を読み応えがある。しかし、見どころはそこだけではない。むしろ、法廷描写とは違う部分に魂を揺さぶるドラマが用意されている。

 

 図式はいたってシンプルだ。ヒトもカネも潤沢に有り、一騎当千の辣腕弁護士が指揮する被告側に対するのは、高額の示談金を突っ撥ね、孤独な戦いに身を投じる一人の男。しかも酒と女に溺れた男だ。ギャルヴィンを取り巻く環境も決して良いものではなく、裁判が始まる前から被告側が用意した包囲網が徐々に彼を阻害してゆく。中立であるはずの判事の評価も芳しくなく、開廷前から勝敗は決しているかのように見えた。被告側の弁護士は未だ負け知らずの無敵の弁護士だ。ギャルヴィンに何ができるのだろうか。

 それでも彼はあきらめない。「ぼくは勝てます。それがわかるんです。」序盤のうちは、この彼の発言はただの虚勢にしか聞こえず、全く根拠の無いように思える。しかし、少し読み進めると彼の自信の源が徐々に明らかになってくる。

 まず、慎重さと勇猛を使いこなし、鮫が悠々と泳ぐ水槽で生き抜いてきたギャルヴィンの師モウ・カッツの存在が眩しい。ギャルヴィンの生い立ちやモウとの出会いの章は序盤にしてクライマックスだ。

 生まれて一度死んだ男ギャルヴィンは、モウによって再び生命が吹き込まれた。それでは、医療過誤により植物状態になった女性の時を再び動かすのは誰なのだろうか。少なくとも三十万ドルの示談金ではない。病院で起こった全ての真実を明らかにし、なぜ彼女が植物状態にならなければならなかったのかを明らかにしなければ、時は止まったままなのだ。原告側に対するギャルヴィンの義憤とモウから受け取った愛情、教えてもらった法律家としての心構え、交わした含蓄に富んだ会話の全てが彼の勝利への自信に繋がっている。

 

 本書にさらに奥深さを加えているのは、被告側の弁護人コンキャノンだろう。組織力では比べるまでもなく、何人もの助手を抱えて裁判材料を集め、人を懐柔させる手腕も並はずれている。彼と原告側との最終打ち合わせのシーンだけで、モウが言った「最上の法律家というのは、予習をして来る者のことだ。」が思い出され、ありとあらゆる想定、準備ができている強者だということが一瞬で分かる。そんな対極にいるかに見える二人の傑物がぶつかり合うのだから面白くないわけがない。

 終盤、両者は手持ちのカードを全て用い、互いの主張を戦わせる。一方が証言の表を突けば他方が裏を。前者が証言の矛盾を指摘すれば、後者はその矛盾こそ真実だと告げる。そんな具合に法廷描写の旨味は幾層にも重なり頁に溶け込んでいる。法廷という異次元の戦場では、敵や味方などの陳腐な概念はどんどん希薄となり、残るのは純粋に真実を求め、正しい「評決」を得んとする弁護人たちの崇高な姿だった。

 

 最後に、謎と解決を中心に据えたミステリとして本作を眺めてみたい。

 明確な謎があり、その解決のための物語にはなっているが、やはり基部にはギャルヴィンという男がどんと構えていて一歩も動こうとしない。解決のための手がかりは最後まで読者に隠されていて、ゲーム性は全く無い。題材にもなっている医療過誤は、社会派推理小説にぴったり合っているし、現代の日本でも度々見聞きする事例なので、異国の事件とはいえとっつき易い。法廷ミステリとしては、E.S.ガードナーが創造したペリー・メイスンのような派手さやエンタメ性が少なく、重厚で殺伐とした雰囲気が満ちている。

 以上で想像がつくと思うが、楽しい/面白い/ワクワクする/顔がニヤつく/腹を抱えて笑う、そんな現象は本作を読んでほとんど起きない。なのにもかかわらず、読了後の充足感と心震わすカタルシスは何物にも代え難い。

 

 評決後、読者は「正しさ」の真実を見ることになる。それは、狂気的に「正当性/正義」を求める呪いのようなものでは決してない。「間違い」が起こったときに「正しい」人物が「正せる」こと。そして私たち読者もまた「正しいことが為された」と確信できることなのだと思う。

 

 最終章、ギャルヴィンの哀しくも愛に満ちた眼差に包まれ、本書は寂然と幕を閉じる。「正しさ」を追い求めた男の英姿だけを残して。

では。

 

 

*1:2002年にバリー・リードが亡くなった時に発行された「ニュー・ヨーク・タイムズ」誌の記事を参考にしています。