『月長石』ウィルキー・コリンズ【感想】安心してください、めっちゃ面白いですよ

1868年発表 中村能三訳 創元推理文庫発行

 

 衝撃的で視覚に訴える殺人事件や目を瞠るトリック、秀逸かつ説得力のある動機、予想を覆す意外な犯人。これらは推理小説にとって必要不可欠なものと言われています。一方で登場人物のリアリティやユーモア描写は付加的なものと見られがちです。かくいう自分も、海外ミステリファンを名乗っておきながら、いつの間にかトリックなどの派手な見かけに惑わされて、物語の面白さや生き生きとした登場人物の重要性を軽視していたのかもしれません。実は本書に挑戦するのは三度目。毎回最初のプロローグ(僅か9頁ほど)で挫折していました。今となっては当時の自分の横っ面を引っ叩きたい気持ちですが、毎度プロローグの時点で「物語が古い(題材が古臭い)なあ」と「どうせ大したことないんでしょ」と軽視していたんだと思います。結論から言えば、ただ古いわけではなく「歴史もの」の題材だっただけの話なんですが……。

 

 本書は全編にわたって、生き生きとした登場人物たちの血が通った手記や寄稿・日記・手紙など一人称による記述形式で進みます。そのため、本編に入った途端題材の古めかしさは跡形もなく消え、登場人物たちの目を通して語られる新鮮で瑞々しいエピソードの数々を堪能できるでしょう。

 もちろん雰囲気全体を掴むには、当時のイギリスの風俗や人々の身分など予備知識はあった方が良いと思いますが、むしろ知らないからこそ興味を魅かれることも多々あります。例えば、本作には随所でダニエル・デフォーの小説『ロビンソン・クルーソー』(1719)の引用が出てくるのですが、それがめっちゃ面白いんですよ。語り手の内面が滲み出るような優しい筆致も相乗効果を発揮していて、最後の最後まで感動と興奮を与えてくれるはずです。

 

 もう一つ、登場人物の描き方で素晴らしいと思った点。

 本書の構成は、目次を見てもわかるように、“月長石”の盗難事件に関係のある人物たち、もしくは関係者と繋がりの深い人物たちが次々とバトンタッチし補完し合いながら物語を紡いでいきます。各人ごりごりの主観で(時には偏見も交えながら)他者の批評をしたり、自分の推理を述べたり、と、それぞれの自由奔放な記述が魅力的です。ここに外的要因(編纂者など)によって記述に手が加えられていない、というのが重要ポイント。つまり、一人ひとりが見聞きした情報(手がかり)がストレートに読者に伝わる点において、推理小説に必要なフェアプレイ精神が遵守されているということ。一方で、記述者が他者を主観的に語るときに、思い込みや勘違いによって自然と間違った情報が提供されている(ミスリードという点。この相対するかのような二つの記述による(文学上の)仕掛けを、まるで体の一部のように巧みにコントロールし大作を仕上げてしまう作者コリンズの高いテクニックを感じることができます。

 特に後者のミスリードに関しては、最近、自分という人間がどんな人間なのか疑問を持つところから物語が始まる稀有なミステリ(アガサ・クリスティ『春にして君を離れ』)を読んだところだったので、クリスティの人物造形の鮮やかさの源泉はこんなところにあったんじゃないかと想像を逞しくしてしまう読書体験になりました。さらには、本書を「これまでにない、もっともすばらしい推理小説」と大絶賛のドロシー・L・セイヤーズも、本書からあの貴族と執事のユーモラスで愛情ある関係性のヒントを得たのではないかとも思ったり……。

 

 

 最後に軽くミステリの中身にも触れておきましょう。宝石の盗難という一見すると小さな事件ですが、登場人物たちの思惑によってどんどん謎が謎を呼び複雑に展開する点が素晴らしいです。一人ひとりの行動理念にも不合理なところは全く無く(もちろん解決するまでは不合理に見えます)、伏線の張り方も巧妙です。あとビックリしたのは、ちゃんと探偵役がいるところ。黄金時代(1920~)となんら変わりないテンションで、当然のように探偵として紹介され、捜査し、推理し、犯人を追跡します。彼による謎解きがどうなるかは是非読んでいただくとして、彼の探偵としての扱いにも作者の捻りが加えられているので、そちらも十分楽しめるはずです。

 解決のサプライズもしっかり用意されています。ここでは改めて一人称の記述の危うさや、ミスリードの巧みさを感じることができるはずです。

 

 

おわりに

 文庫本2冊分という絶大な厚さと重さのせいで、なかなか手にとる勇気が出ない方も多いと思いますが、安心してください。めっちゃ面白いですよ。むしろ分冊しなかった東京創元社が天晴れ。不安な方は、物語の第一章(序破急の序)にあたるところまで、まずは読んでみましょう。えーっと、何頁あったっけな?……315頁までね……。頑張ってくださいめっちゃ面白いですよ(2回目)。

では!

 

月長石 (創元推理文庫 109-1)

月長石 (創元推理文庫 109-1)