『春にして君を離れ』アガサ・クリスティ【感想】バイブルにしたい必読書

1944年発表 ノンシリーズ 中村妙子訳 ハヤカワ文庫発行

 

 すごいすごいとは聞いていましたアガサ・クリスティ(メアリ・ウェストマコット名義)『春にして君を離れ』は確かにすごかった。

 

 クリスティ自身が自伝の中で「自分で完全に満足いく一つの小説を書いた」と言わしめた作品。あらすじもクリスティの口を(女史の自伝から)借りようかと思ったのですが、ギリギリまで迷って(ネタをバラす可能性があるので)、早川文庫の裏表紙からお借りします。

女の愛の迷いを冷たく見据え、繊細かつ流麗に描いたロマンチック・サスペンス。

 

 たしかにロマンチックなタイトル(元ネタはシェイクスピアの詩集から)ではあります。読む前は、クリスティのいくつかの作品の中で取り上げられる軽くて朗らかなラブロマンスかとも思っていました。しかし、その甘い予想を覆し、本作は、途轍もない破壊力と爆発力を秘めたサスペンスであると同時に、驚異的な致死率の毒まで含まれた(ある意味)ホラーでもあったのです。おわり。

 

 

 

 なんかキャッチーで耳に残るフレーズを用いてバシッと決めたいと思ったので、色々考えてみました。

『春にして君を離れ』は、「未来の殺人事件を描く」物語である。

 

以下、ネタバレ&妄想全開で書きますので、未読の方はご注意ください。

 

 

 

 

 

 読み終わった直後の自分の読書メーターの感想を見てみると、「ありとあらゆる関係性の中で踠き苦しむ全ての人に読んでもらいたい名作」とか「キリスト教的な原罪性に切り込む鋭い筆致」だとか「人生の節目節目に立ち返って読み返したい重く苦しい必読の書」などと書いていて、クリスティの生命を注ぎ込んだ力作から迸るエネルギーにノックアウト寸前だったことがわかる。

 

 以下、本書を読んだ時の自分の心の動きから始めて、ミステリとして眺めながらした妄想をまとめたい。

 

 

 読者としてジョーンという女性と向き合ったとき、まず一方的に彼女の表面的な痛々しさを見て同情し、多少苛つき、その後身近な誰かに重ね合わせて憎悪した。物語が進むにつれ、そんな悪い意味で純粋過ぎ幼気な彼女に対する悪感情は和らぎ、彼女を傷つけまいと陰ながら支え、時には冷めた/諦めの目で見つめる家族に感情移入し、より一層ジョーンに対する憐憫の情が強まってゆく。と同時に、家族が抱える秘密、決してジョーンには開かない扉のその先を垣間見、クリスティがミステリの中で描く人間ドラマと同じように、サプライズと物語の全容が見えてゆくカタルシスを感じるようになる。あとは着地だ。さて彼女は懺悔し改心するのか。

 

 全ての章が閉じエピローグに入ったとき、さっと本を伏せ、その余韻と衝撃、ありもしない・おこりもしないことに対する根拠のない、漠然とした、でも一瞬だけど強烈な恐怖を感じたことを覚えている。

 それは「これからエピローグで殺人が起こるんじゃないか」ということ。今までの数百頁は、被害者が殺害されるまでの経緯と犯人の殺人を犯すまでの心の動きを綿密に描いた異色のミステリだったのではないか。もちろん、その妄想は杞憂に終わり、虚無感と、結局誰もフォローしてくれないまま恐怖だけを残して、最後のあのゾクゾクと肌を粟立たせる薄っぺらい愛の言葉で締め括られる。

 

 上記の妄想は稲光ほどの一瞬の閃光で、気が付いた時には、序盤で書いたような体のいい読書メーターの感想を書いていた。しかし、冷静になった今改めてロドニーによる「殺人が起こるまでの物語」というのはあながち間違ってはいないのではないかと思うし、もう一つ穿った見方をすると、間接的ではあるが、ジョーンによる「人間性を否定し排除する特殊な殺人事件」でもあると思う。

 今ではネグレクトやDV、過干渉といった子どもに悪影響を及ぼす“毒親”という表現も誕生している。それもまた子どもの成長を阻害し、未来を奪う≒(少々物騒だが)殺人であると言っても良いのかもしれない。クリスティは1944年にあって、ごく一般的にいたであろうある中年女性を主人公に(もちろん個性は伸ばしただろうが)毒の強い小説を世に送り出した。本作が、当時どれだけセンセーショナルで衝撃的であったか知る方法が無いのが残念だが、自伝を見ると様々な意見があったのではないかと思わせる。

この小説が実際にどんなふうなものかは、もちろんわたし自身にはわからない。つまらないかもしれない、書き方がまずく、全然なっていないかもしれない。だが、誠実さと純粋さをもって書いた、本当に書きたいと思うことを書いたのだから、作者としては最高の誇りである。

 

 もちろん本作に対する愛情と自信、矜持は伝わってくるが、『そして誰もいなくなった』や『アクロイド殺し』を書いた天才作家とは思えない自信の無さも感じられる。そして、ここで注目したいのは「書きたいと思うことを書いた」という部分。

 

 彼女が人生の大半を捧げて書いたのは、ほとんどがミステリというジャンルの読み物だった。ポワロという鼻につく名探偵に辟易していた時もあったようだが、自分としては、本作に続く「ミステリ小説」があったように思えてならないし、クリスティが「本当に書きたいと思うこと」は特殊すぎるミステリだったのではないかと思うのだ。

 

 

 『春にして君を離れ』の続編があると仮定して、再びエピローグを読んでみる。

 そこでロドニーの目にちらと映ったのは、生まれて初めて一人きりになり自分と向き合ったジョーンの変わったかに見えたまやかしの姿だった。ロドニーは神頼みのように、このままジェーンが変わらないように、孤独に気づかないようにと願う。しかし、彼女の脳には既に不信と疑惑が巣食っている。最終章では、見ないふりをしたジョーンだったが、エピローグでは完全に傷は癒えていないのがその証拠だ。

 ロドニーは人生の大半においてジョーンに妥協し、調整し、諦めてきた。もちろん上手くやったことは幾度もある。そんなある日。ジョーンは全てに後悔し、懺悔し今までの虐げと抑圧の赦しを請う。ロドニーは赦すだろう。決して今までの時間は戻ってこないのにも関わらず。いや、逆にジョーンは変わらないかもしれない。本質的なところ、人間の核は滅多なことでは変わるはずがない。ジョーンが贖罪を果たしたとしても、彼女はいつかロドニーを完膚なきまでに傷つけるだろう。ロドニーが密かに愛で、全霊を注いだレスリーを貶め辱めるかもしれない。その時、ジョーンの人生の終幕は決定づけられる。

 

 

 最後はだいぶと妄想一辺倒になってしまい申し訳なかった。しかし、どちらがより悪なのか、といった物差しとは別に、ひとつのミステリとして眺めた時に、というか眺めてしまった時点で、自分には壮大な「倒叙ミステリ」しかも犯人ではなく被害者の物語としか読めなくなってしまった。

 そもそも、殺される側の物語というのは作家としても書きにくいのではないかと思う。死んで良い人間などいない、という陳腐な台詞がすぐに浮かぶし、ともすれば人権的な観点から世間から叩かれるかもしれない。ただ、もし被害者の物語を誰かが書いたとしたら?しかもその物語の中に、犯人も登場させ、動機を提示したとしたら?そんな作品があるとするなら、それは『春にして君を離れ』のような作品になるのではないか。

 

 

 結局まだぐだぐだと夢想している。

 本書には、解説の栗本薫氏が書いておられるように、二人の道徳的な罪を暴く(こんなフレーズではないが)物語として捉える奥深さが間違いなくある。ピリッとではすまない激辛で尚且つ極上のサスペンスも味わえる。それだけでも傑作級だ。しかし、自分にとっては、ミステリの女王アガサ・クリスティが自身と確信をもって書いた至高のミステリであり、だからこそバイブルにしたい必読作品なのだ。

 

では。