『鍵のない家』E.D.ビガーズ【感想】ハワイ行きたい

1925年発表 チャーリー・チャン警部1 林たみお訳 論創社発行(論創海外ミステリ128)

 

 

アール・デア・ビガーズという男

 E.D.ビガーズは、1884年アメリカ・オハイオ州生まれ。地方新聞の編集者や劇作家として働き、数々の成功を収めました。

 彼の名を一躍有名なものにしたのは、1925年に発表した本書『鍵のない家』で、のちにシリーズ探偵となるホノルル警察のチャーリー・チャン警部の誕生が切欠でした。

 欧米では19世紀の末から20世紀初頭にかけて、アジア人に対する人種差別的な思想が蔓延していました(詳しくは黄禍論 - Wikipedia参照)。ミステリ好きなら一度は聞いたことがある「ノックスの十戒(推理作家ロナルド・A・ノックスが提唱した推理小説の書く際のルール)」にも「中国人を登場させてはならない」があるように、アジア人に対する恐れやアジア人を悪役として描こうとする動きがあったのは確かです。そんな情勢の中、それらの思想や風潮をかびの生えた時代遅れのものとしてとらえ、一転して正義のヒーローとして描いたのが上述の中国系アメリカ人の警部チャーリー・チャンでした。9人(のちに11人)もの子どもの父でもある彼は、丸々と太った体形に明晰な頭脳を備えた名探偵として活躍します。

 

ネタバレなし感想

 第1章から本書の旨味は爆発しています。燃えるような夕陽、夕陽が黄金色に染め上げる打ち寄せ波、心地良い貿易風、晴空に厳かに漂う叢雲、どれもがハワイ特有の風情ある叙景描写で、これだけで海外ミステリを読む価値があります。また主人公格の青年が船でハワイ島へ向かう船路が雰囲気を高めています。まるで彼と一緒に謎と浪漫に満ちたハワイへと旅立っているかのようです。この点は後で詳しく触れましょう。

 

 あらすじは常道でありながら少しアレンジが加えられています。陰のある資産家の死というありきたりな事件が底本ですが、現地に住む名家の女性と本国から派遣された堅物の青年紳士がともに手がかりを追うという素人探偵のような趣向も加えられています。その所為か、もしくは第一作目だからか、チャーリー・チャンの活躍はやや控えめ。もちろん解決編では鋭い知性と行動力を見せてくれますが、メイン探偵というよりも、物語の進行を補佐する狂言廻し、もしくは世間に受け入れられるか作者が試作したようにも見えます。

 

 ミステリの核については、特殊な手がかりが異彩を放っています。一度考証した手がかりに新たな方向から光を当て、違った意味を見つけ出す、という特殊な手法が1925年という黄金時代初期に生まれていたのには、ただただ驚かされます。

 全体を通して、多少挿話が多すぎるきらいがありますが、そのどれもが面白く、しかも齟齬なく都合と説明が付されるので、読後感としては悪くありません。むしろ人種の坩堝と化したハワイで織りなされる人間ドラマを純粋に楽しめます。ここらへんは、さすが大衆を満足させる劇作家としても名を馳せたビガーズ、といったところでしょうか。

 

 個人的に本書を推したいポイントはやはり主人公格の青年ジョンでしょう。彼は名門ウィンスタリップ家の御曹司であり、ある使命を帯びてハワイ島へと向かいます。サンフランシスコでの刺激的な体験や、船上での運命的な出会いは、後の彼の人生を大きく左右するものでした。そして、堅物でいかにも名門の御曹司タイプだった彼の固い心は、ハワイの陽光と風を受け少しづつ変わってゆきます。彼の男としての成長/しがらみからの解放、という物語だけでも十分楽しめてしまうところは、本書の美点に違いありません。

 これは蛇足ですが、彼と自分が同い年だったこともあって、妙なシンパシーというか「お前は俺か?」状態で楽しく読めました(本書のような刺激的な体験はしたことないです)。あ、御曹司でもないです。

 

ネタバレを飛ばす

 

 

 

以下超ネタバレ

《謎探偵の推理過程》

本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本書を読んでからお読みください。

 

 第一章「コナの嵐」はそれだけで本書を読む価値を高めてくれる。

 アモスとダンの間にある溝は事件に関係しているはず。たぶんダンが死んでアモスに疑いがかかる展開だろう。

 

 サンフランシスコでのジョンの災難を鑑みるに、ダンの後ろ暗い過去をネタに揺すろうとした人物、もしくは、彼が握っていたネタに揺すられていた人物が犯人か。

 第8章になって、ようやくジョンがハワイに到着するが、すぐさま素人探偵を依頼され戸惑い激怒、から一転して美しい従妹のため義憤に駆られ「目を輝かせて」警察と行動を共にするのが笑ける。齢30といってもまだまだ若いな。

 

 語られていない挿話、そして明確になっていない手がかりが多すぎてまともな推理ができない。

 怪しげに見えるとされていた人物たちには悉くそれなりに怪しく見えていた理由があって、しっかり説明されていくので、どんどん容疑者候補が減っていく。それでもなお残っているのは、弟のアモス、そして序盤から登場していて突然あしながおじさん的に再登場したコープ大佐。後者は海軍省に勤める高潔な人物なだけに、犯人にするには十分魅力的。もちろん、ダン殺害当時のアリバイなど調査してもいないし、元はダンと同業だった、とか彼に強請られていたという設定も十分可能か。まあこっち方面の手がかりが皆無なので本命ではないが……。

 

 サプライズだけでいくとカマイクイという線も思い浮かんだが、登場人物一覧に載っていないし、腕時計も関係ないし、で断念。

 

 コープ大佐だと仮定して殺害前後の頁を見返してみても、隠れて乗船している気配もないし、伏線もない。上陸前夜に仮装パーティーをやっていたことは関係あるだろうか。ボストン出のボウカーと言う男も怪しく見えてきた……。

 ダンが港で会い、手紙を託したヘップワースはどうだろうか。彼がコープの手下か何かで、手紙を盗み見、共犯関係を築いたのかもしれない。まあ登場人物一覧に載っていないので微妙だが……ここらで降参。

 

推理

アーサー・テンプル・コープ

 

撃沈。

 

 たしかに驚かされるし、腕時計の手がかりはかなり秀逸。一度、物的証拠としての価値を落としておいて、手首の太さという鋭角から切り込む手法は中々よくできたものだと言える。煙草の吸殻や新聞の切り抜きなど、お決まりの手がかりが散見されるのは古典ミステリの特徴なので逆に好ましく見えるし、それらが早々に無用だとわかるので歯切れは良い。というか、それら無用の手がかりこそ、腕時計から気をそらすミスディレクションになっている……のかもしれない。

 

 一方でモヤモヤするのは、ホワイダニットについて。ダンが溜め込んだ悪銭という動機は王道で納得できるが、ダンが書き換えようとしていた遺言書の手がかりが後出し(頁364)なのはモヤっとする。一応頁222にもジェニスンがダンの弁護士であることと遺言の中身の記述はある。もちろん、その情報が先に出ていたら、ジェニスンから目が離せなかっただろうし致し方ないとは思うが、もう少しヒントが欲しかった。ジェニスンが麻薬取引に関わっていた悪人という伏線も弱い気がする。

 

 読み返してみると、殺害後ではあるが、頁279のバーバラの台詞「ジェニスンさんと結婚するつもりはないんです」は巧み。この時から、彼女はジェニスンを疑っていたのか。さすがにチューのあとで暗殺未遂(頁287)はやり過ぎだし、やり過ぎて逆にジェニスンではないと思っていたので、普通にジョンとのチューが原因で結婚を止めたのかと思った(純朴)。コナの嵐のような女心の荒れ模様に翻弄されたということか(オチてない)。

 

 

 

 

  ネタバレ終わり 

 

 もう一回書きますけど、第一章「コナの嵐」は、ハワイ島の良いところを詰め込んだ宝箱のような章となっているので、ミステリに興味ない人も是非試しに読んで欲しい美しい文章です。五十歳を過ぎた女性の視点から描かれる、様々な心の変化、夢想の数々だけで今後起こるドラマの大きさを感じることができるはず。読めば間違いなく、ハワイに行きたくなるミステリでもあります。

 

では!