発表年:1938年
作者:ヘレン・マクロイ
シリーズ:ベイジル・ウィリング博士1
訳者:板垣節子
ヘレン・マクロイにチャレンジするのはこれで二度目。初挑戦は、なんの気紛れかベイジル・ウィリング博士シリーズ第5作『家蝿とカナリア』からでした。該当記事は、海外ミステリ初心者だった鼻たれ小僧時代の記事なので、紹介が憚られます。
ということで初心に返ってまずは作者紹介から。
ヘレン・マクロイという女
1904年ニューヨークに生まれたヘレン・マクロイは、日刊紙の編集長である父の才能を受け継ぎ、14歳という若さで評論原稿で収入を得るほどの才人でした。
その後、パリの大学に進学し、アメリカの新聞社の特派員として働く傍ら、評論やミステリ、詩などを発表し生計を立てます。
主なシリーズは、本書でデビューした精神科医ベイジル・ウィリング博士。「心理的な指紋」と呼ぶ精神分析によって見出される手がかりを元に、数々の難事件を解決へと導くミステリ界屈指の名探偵です。
本書のような本格ものから、サスペンス溢れる作品まで、数多くの名作を世に送り出した彼女は、女性では初めてMWA(アメリカ探偵作家クラブ)の会長を務めた人物でもあります。
近年、続々と未訳長編が翻訳されている勢いのある女性作家なので、この機会に名前だけでも覚えて帰ってください。
本書のあらすじは、帯をお見せするだけで十分でしょう。
帯下の紹介分までクールです。
本書、実はちょうど1年くらい前まではレア中のレア本(古本で1万とか2万はザラ)でした。
それが今では普通に定価以下で売ってますし、新品も紀伊国屋とかに並んでるんで驚きです。入手するとしたら間違いなく今がチャンス。
閑話休題、帯にもあるとおり魅力的すぎる事件の発端です。でも、これだけじゃないんです。
いや、これじゃない、が正解でしょうか。
本書の真の魅力は、異常でホットな死体ではなく、ウィリング博士の言う「心理的な指紋」の数々です。魅力的な「事件の謎」ではなく、魅力的な「手がかり」の数々に着目して読みましょう。
意識的な言動ではなく、無意識化の言動やちょっとした言い間違い・勘違いなどのミスが、謎の解決に一役買っている点が他のミステリにない最大の美点です。ともすれば、このテの手がかりは突拍子もなく眉唾物に思われてしまう可能性もありますが、本書の場合はどれもが説得力を持ち、手がかりの真の意味が明かされたときに、解決編も含めて重みのあるサプライズにつながるのも見逃せません。
また、探偵の真相を閃いた瞬間も丁寧に描写されているのも好きなポイント。ウィリング博士のクールな雰囲気が作品とも絶妙にマッチしています。
プロットの秀逸さも抜群で、1920年代の作品とは明らかに毛色の違う、黄金時代後期を代表する名作だと言えます。
以下超ネタバレ
《謎探偵の推理過程》
本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本作を読んでからお読みください。
雪の中で熱中症らしい状況で見つかったアツアツな美女の死体。というだけでツカミは十分。
しかし、さらっと毒物による中毒死だと明かされるので、いささか面食らう。大丈夫か、そんなに簡単に明かして(あと200頁持つの?)。
第13章(頁144)で「心理的な指紋」の重要性が指し示されてから、入念に犯人のミスに視点が誘導されていく。うっかりミスねえ…
第18章ではわざわざ登場人物たちの心理的な指紋を一つひとつ提示し、改めて読者へ考察させる丁寧ぶり。
このどこかに犯人を指し示す重要な手がかりがあるはず…なのだが。
いち探偵として挑んでみると、まずスベルティスの副作用を知っている人物でなければ、殺人はできない。単純に伯父のエドガーが容疑者候補。
しかし、機会があっても動機は皆無。というか、そもそもキティを殺したいとはっきりとした殺意を抱いていた人物すら見つからない。
気が付くと解決編…降参。
推理
…
結果
キャサリン・ジョウィット(愛娘がダイエット薬の副作用で死んだのに、企業にスキャンダルをもみ消される。さらに、その薬の宣伝モデルが自分では呑んでいなかった事実を知り生じた歪んだ復讐心。)
ホワイダニットのひとつの完成された形です。
う~ん、これからは特殊な形の毒殺が出てきた場合、その毒で過去に死んだ人物にも着目しなければならない、と教わった気がします。
最も決め手となる「心理的な指紋」が英語の綴り間違い、ということで、日本人にとってはかなりアンフェアな記述にはなっていますが、ここを仕方ないと受け流すことができるか・我慢できるかどうかで評価が大きく変わります。
個人的には、ちゃんとキティの署名(随所に登場)と犯人の名前がちゃんと英語で書かれていて関連性が提示されても、動機まで推理できたか怪しいと思っています。
オチまで美味しく楽しめる傑作長編であるうえに、物語の余韻が良いです。事件解決後の世界にも思いを馳せたくなるような独特の余韻が、どことなくクリスティの作品群を想像させます。
事件の題材は、現代でも色褪せない性質を持つので、この機会に重版・文庫化され多くの人の手に渡るといいなあ。
では!