発表年:1907年
作者:オースチン・フリーマン
シリーズ:ソーンダイク博士1
訳者:吉野美恵子
前回読んだソーンダイク博士ものの短編集が、ホームズのライヴァルたちと銘打たれていたこともあって、てっきり短編でしか登場しないと勘違いしていました。そもそもこちらが初出だったんですね。
当時人気を二分したと言われるシャーロック・ホームズもいくつか長編で活躍していますが、どうも中身は芳しくなく評価もイマイチ。
一方ソーンダイク博士は、医者や弁護士といった社会的に認められた肩書を持つおかげで長編にちゃんと映えるキャラクターになっており、そもそもミステリとしての出来が抜群。雲と泥は言い過ぎかもしれませんが、かなり差はあると思います。まあ、ホームズものの良さはその出来だけではないことは、おわかりいただけてると思いますが。
ミステリの出来が抜群とは言いましたが、本作ではそこまで事件自体が物珍しかったり、そんなに謎が魅力的だとは思えません。
赤い拇指紋=血染めの指紋が指し示す犯人がはたして本当に犯人か否か、という謎を中心に、ただただソーンダイク博士と友人で語り手のジャーヴィスが捜査を積み重ねるのが物語の骨子です。なのになんでしょうこのずっしり感は。
さすが1907年発表というだけあって、まだまだ移動に辻馬車を利用しているなど小道具の古めかしさはあるのですが、決してカビ臭く古臭いわけではありません。煤けた埃まみれの古さではなく、丁寧に保管され磨き上げられたアンティーク家具のような古風さがたまらなく好きです。
素晴らしいクラシック・ミステリというのは、まさしく本作のことを言うに違いありません。
そして、そんなクラシカルな雰囲気と相乗して物語を盛り上げるのは、古風とは正反対の(当時)最先端の科学捜査とロマンス、そしてカーの傑作『ユダの窓』に負けずとも劣らない見事な法廷描写でしょう。
まず科学捜査から取り上げます。
創元推理文庫から出されている『ソーンダイク博士の事件簿Ⅰ』の感想でも述べたとおり、科学探偵の祖であるソーンダイク博士の実績は折り紙つき。科学捜査をただの見世物的な扱いにするのではなく、ミステリの核として、謎の解明のために全幅の信頼と重きを置いているのがなんといっても素晴らしいところ。
もちろん現在の科学技術の進歩を差し引く必要はあるでしょうが、法廷で行われる科学実験や検証自体は説得力もあり、十分納得できる水準でしょう。ただ読者が同じ視点で解明まで辿りつけるか…と言うと多少キツいところはあります。
ロマンスについては、まあワトスンに似通っている部分もありますが、古き良き時代特有の奥ゆかしさというか品位のあるものにはなっていて、最後の最後に一捻りあるのも特徴です。
そして最後は解決編の法廷シーン。
イギリスの法廷の特徴(事務弁護士や法廷弁護士の違いなど)を知っておくとなお楽しめるはずですが、そこらへんはまた機会があれば(あんま知らない)
とにかく、陪審員一人ひとりの宣誓から始まる厳かな法廷シーンは、逆転に逆転を繰り返す展開を挟みつつ、最後は、ソーンダイクの証明を支持する弁護人の弁論と、検事が述べる最終訴追、そして判事の見事な総括によって締め括られます。
実は、犯人の正体自体は、ソーンダイクの美しい証明以前に自ずと明らかになってしまうのですが、それでも弛むことなく法廷シーンを読み進めることができるのはやっぱり作者フリーマンの見事なストーリーテリングの賜物。
古典ミステリという括りの中で燻っている作品かもしれませんが、よく読みこむと、その細やかな意匠やディティールには驚かされることばかり。
素晴らしいクラシック・ミステリとして、ソーンダイク博士シリーズがこれからも多くの人の目に触れることを願っています。
以下超ネタバレ
《謎探偵の推理過程》
本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本作を読んでからお読みください。
正確に見返すことはしていなかったのだが、たしか短編集『ソーンダイク博士の事件簿Ⅰ』で本作の謎の核についてチラッと見てしまった記憶があった。
ただ、“指紋の偽造”というワードだけで、それだけでは決してネタバレにはなっていなくて一安心。
どう考えても怪しいのはウォルターだろう。
方法さえ説明できれば、動機・機会・実力ともに申し分ない犯人。彼が犯人だという手がかりだけ探しても数多くある。
ソーンダイク博士を狙う男、というだけでもウォルターしかいないし、彼以外では、ジャーヴィスに近づいているようにも見えるジュリエットとの共犯くらいしか他説が無い。
指紋帖の手配や証言の準備にもウォルターが関わっているし、技師としての実力もある、となると、たとえ方法がわからなくても、とりあえずウォルター一択。
推理
ウォルター・ホーンビー
結果
勝利
うんうん。まあそうでしょう。
指紋偽造のトリックは解明できませんでしたが、フーダニットについては候補者の少なさと十分な手がかりのおかげで推理できました。
というか、最後の法廷シーンの中盤でソーンダイクからのメッセージで「W・H(ウォルター・ホーンビー)」が犯人であることが判明してしまうにも関わらず、そこからもうひと盛り上がりあるの凄くないですか。
手がかりがこと細かに提示され、フェアプレイも十分満たしていますし、証明の美しさだけを見ても、時代を感じさせない色褪せないものが確かにあります。
少し気になるのはソーンダイク博士のキャラクターについて。
作中では年齢が三十代前半であるはずなのですが、どうも年寄りというかベテラン感が出過ぎのような気がします。
もちろん当時の紳士は、現代人よりよっぽど大人だったはずですし、ソーンダイク博士のキャラクターに軽薄さは不必要だとは思うのですが、ちょっとおじいちゃん感ありませんか?もう少し読み込む必要があるようです。
そういえば、ホームズはホームズでたしかに年齢不詳なところもあった気がするのですが、ソーンダイク博士の方がよっぽど人間味あるキャラクターなだけに、もっと彼のことが知りたくなった長編第一作となりました。
では!