発表年:1921年
作者:A.A.ミルン
シリーズ:ノンシリーズ
推理小説初心者の方にも安心してオススメできる一冊ですねー。
A.A.ミルンと言えば、あの「くまのプーさん」の原作者ですね。
かたや愛する息子に捧げた児童書、かたや敬愛する父に捧げた推理小説、と一見正反対の書き物のように思われる二つの作品の中には、共通して、ユーモア溢れる彼の豊かな才能が惜しげもなく注ぎ込まれています。
1921年といえばミステリ黄金時代であり、当時の読者たちは、ホームズを代表とする超人的な探偵に辟易していたことでしょう。推理小説愛好家であったミルンの父も、この多分に漏れず新しい推理小説との出逢いを待ちわびていたに違いありません。
そんな父に対する思いは、本作冒頭の献呈の言葉から読み取るとして、ミルン自身も、従来の推理小説が陥っていたジレンマを感じており、父に満足してもらうためだけではなく、彼自身が推理小説に対して真摯な気持ちで、且つ作家としての挑戦も含めて本作を書き上げた、と私は思います。
例えば、ホームズに倣ってワトスン役の配役してはいますが、作中ではホームズの超人的な推理に苦言を呈している点。また、ロマンスの要素を挿入せず、読者が純粋に推理にのみ集中できるよう配慮されており、さらにフェアプレイの遵守にも余念がありません。
たしかに本作の探偵アントニー・ギリンガムは、瞬間記憶という一度見たものをいつでも思い出せる特殊能力の持ち主ですが、ギリンガムの見たものは、ほぼ全て文章として読者に提示されるため、決してフェアプレイ精神に欠けるというわけでもありません。
そして、ワトスン役のビル・ベブリーも、従来のワトスン役のように、気が回らず頓珍漢な言動を繰り返す、低能な人物ではなく(ワトスンのことじゃないよ)、ギリンガムの相棒として、相応しい活躍を見せるため、読者をイライラさせません。
本作のあらすじはこうです。(いまさら)
ある暑い夏の昼下がりに「赤い館」を訪れたオーストラリア帰りの粗野な男。そして、閉め切られた館の戸を叩く秘書。アントニー・ギリンガムは、「赤い館」に客人として招かれていた友人のベブリーを訪ねた折、偶然にも騒然とした事件現場に居合わせたのだった。かくして彼と友人ベブリーは思いがけず、赤い館に隠された難事件に巻き込まれる。
物語の舞台がほぼ全てが赤い館周辺で収まり、舞台の移り変わりのシーンに文を割く必要がないため、進行のテンポが良く、あったとしても数行で移動が完了してしまうので、ストレスがないのも良い点。ここには、ミルンの文章力の高さが垣間見えます。
しかし、肝心のトリックについては、一部に決定的な欠落があり、レイモンド・チャンドラーが指摘している項目もそこだと思われます。その点は、実際に読んで確かめてほしいですが、もし仮に欠落部分を補てんできたとしても、犯人を当てることだけに特化して推理してみれば、そんなに難しいトリックではないでしょう。
推理小説に馴染みのない読者は、トリックに熟れる前に本作を読むといいと思います。ギリンガムとベブリーのユニークな会話も相まって、読みやすさはこの上なく、二人の活躍をまだまだ見たいという気持ちに駆られることでしょう。
あと心に残るのは、素人探偵アントニー・ギリンガムの特殊能力、瞬間記憶(カメラアイ)と、ワトスン役ビル・ベブリーです。
今でこそ、ありとあらゆる超能力系のドラマや映画、漫画などで多用される能力ですが、1921年という時代に流行のミステリに組み込んでしますあたり、作者の相当なセンスの高さを感じます。
繰り返しになりますが、ワトスン役ベブリーもユニークです。
本社の裏表紙にも書かれてありましたが、この二人の素人探偵という設定が斬新です。よくハードボイルドものや刑事のバディムービーで用いられる「相棒」という言葉がピッタリ合います。けれども纏う雰囲気は柔らかく温かくて安心感がある。
だからこそ、もっと二人の活躍見たい!という気持ちが溢れるんですよねえ。
たぶん、ミルンは同じ水準の推理小説なら何作もかけたに違いありません。
それをしなかったのは、彼が生粋のユニーク小説作家であり、「クマのぷーさん」に代表される、愛と優しさに満ちた物語を心から愛していたからでしょう。
では!