発表年:1923年
作者:ドロシー・L・セイヤーズ
シリーズ:ピーター・ウィムジィ卿
6歳でラテン語を、15歳でフランス語とドイツ語をマスターしてしまった天才女流作家。
そう本日紹介するドロシー・L・セイヤーズのことです。
彼女は人気・実力ともに、アガサ・クリスティと並び称される女流作家ですが、クリスティほど日本での知名度が高くありません。
それは、彼女が推理小説作家に留まらず、様々な分野で活躍し続けた結果によるものかもしれません。
本作は、そんな彼女の記念すべき処女作です。
彼女は、オックスフォード大学で現代文学の学位を取得後、教師やコピーライターなどの職業を経て、貴族探偵ピーター・ウィムジィ卿を誕生させました。
ピーター卿は、今作『誰の死体?』以後10作の長編と2作の短編に登場し、貴族という特権を惜しげもなく存分に生かし、有能な執事や信頼する友人でもある警察官などの個性あふれる登場人物たちとともに、難事件に挑みます。
彼は、名門デンヴァー公爵の次男であるため、爵位は長男であるジェラルドが継承しています。
よって、肩書きによる重責を担うこともなく、また金銭面で困窮することもなく書物蒐集に勤しみ、本名ウィムジィ(Whimsy)の意味するとおり、“気まぐれ”の赴くまま、趣味の犯罪学の研究に没頭するのです。
彼の発言は、いつでもウィットに富み、ことあるごとに用いられる書物からの引用もまた、彼の聡明さや博学ぶりを裏付けています。
ここまで見ると、特権階級の生まれのお坊ちゃんが、なんの苦労もせず、財力と権力を使って犯人を逮捕する、華々しい英雄譚のように聞こえますが、もしそうであれば、セイヤーズはクリスティに比肩しうる推理作家とは呼ばれなかったでしょう。
舞台は、第一次世界大戦が終戦した後のイギリスです。
そして、この戦争に陸軍少佐として従軍していたピーター卿は、シェルショック(今でいうPTSD)のような戦争後遺症による発作に悩まされていたこともわかります。
このことについては、本作では委細が明かされないものの、一見陽気で溌剌とした風体に見える卿に垣間見える暗い影、これがピーター卿に奥深さを与えている一つの要因であるに違いありません。
この設定は、キャラクターに厚みを与えるための、取ってつけたような設定の一つではなく、彼が戦争後遺症の対処療法の一つとして、犯罪学の研究を行っているという明確な裏付けとリアリティに繋がります。
それゆえに、彼自身が、真相に近づくにつれて、一個人が人を裁くという自身の行動に悩み葛藤しながらも、一方で魅力的な犯罪との遭遇に興奮し、解決までの思考探索に没頭する、という一般的な探偵像から、かけ離れたイメージを読者に与えることに成功しているのです。
ここからがようやく本作の紹介です。
タイトルの『誰の死体?(原題:Whose Body?)』のとおり、不可解な場所(建築家の男の浴室)で不可思議な格好(全裸に鼻眼鏡)で見つかった一つの死体を中心に話は進みます。
消えた財界人を取り巻く問題や、死体が身に着けていた鼻眼鏡の持ち主の登場など、変化に富んだ展開を見せるものの、ストーリーはいたって王道で、トリック・動機にしても新鮮味は薄いです(1923年なら当然といえば当然)。
とはいえ、ピーター卿と犯人が一対一で対峙する緊張感に満ちたシーンや、戦後のヨーロッパで暮らす人々の精神的に不安定な状況を鮮明に描いている点などからも見どころは多いです。
特に目を引いたのが、探偵が真相に辿りついたシーン。
よくあるのは、登場人物の一人(ワトスン役が多い)の何気ない一言がヒントになり、探偵が真相に辿りつくための最後のピースが埋まるような描写ですが、今作では違います。
ここでは詳細は書かないことにしますが、一文だけ
あたかも自分が世界の外に立ち、地球が無限の次元を持つ宇宙に浮かんでいるのを見たかのように。もはや理屈づけることはおろか、考える必要さえなかった。わかったのだ。
かっこいい(確信)。
脳内麻薬エンドルフィンの発生が、見て取るようにわかり、ピーター卿の興奮が伝わってくるようです。
この探偵の閃きのシーンは、推理小説において重要なポイントです。これより後ろは探偵の謎解きと、物語が辿る結末しかありません。
つまり、真相に辿りつくヒントは、この閃き以前に全て読者に提示されているのです。
ここで頁を遡り、一つ一つの手がかりを見直すのも悪くないし、一気に名探偵の推理を拝聴するのも良いですね。
あたりまえ、とお思いでしょうが、再度そんな当たり前のことに気づき、推理小説を読む楽しみ・悦びを感じることができる名作が本作なのです。
では!