発表年:1920年
作者:F.W.クロフツ
シリーズ:ノンシリーズ
本作の感想を述べるにあたって、まずは重要なキーワードである『樽』について説明しておくべきでしょう。
『樽』と聞くと、私は真っ先にドンキーコングを連想します。ドンキーコングの世界で樽は、大砲になったり、セーブができたりと、一部を除いてただ敵に投げつけるだけの消耗品に過ぎません。むしろ、投擲に伴う破壊衝動が満たされ、敵の「オウッ」という断末魔の叫びにも一種の気の高ぶりと満足感を得られたプレイヤーは私だけではないはずです。
一方、クロフツの処女作『樽』に登場する樽は、濃厚で円熟味を帯びた、重厚感のある樽です。樽の蓋(ページ的な意味でも)は、確かに開き難く、一度開いても中身を覗く勇気がなかなか出ません。それほどまでに鈍重で多少なりとも、忌避感を感じさせる作品なのでしょうか。
Wikipediaによると、本作は、推理小説におけるアリバイ崩しを確立し、イギリスでのミステリ黄金期の幕開けとなった作品と評されています。
前者については一旦置いておくとして、後者については、本作が発表された同年にアガサ・クリスティがデビュー作『スタイルズ荘の怪事件』を発表したことからも、納得できるでしょう。
超人的な名探偵たちが群雄割拠するホームズ時代から時は移ろい、「足」で真実を追い求める、凡才・努力型の探偵が登場したのもこの頃です。たしかにホームズ時代の名探偵たちには派手さで劣りますが、徹底的なリアリズムが追求され、ロマンスや冒険的要素を排除し、純粋な謎解きに特化されたミステリ、という意味では、本作は今までの推理小説とは一線を画した作品です。その徹底したリアリズムゆえ、クロフツの小説は退屈だというイメージがあるそうですが、実際にはどうでしょうか?検証してみましょう。
本作は三部構成になっており、一部では、物語の中核を成す『樽』の発現と、喪失を巡る謎を、スコットランドヤード警部のバーンリーが追います。
続いて二部では、『樽』の辿った経路と、『樽』に関与する登場人物たちへの調査を、バーンリーとパリ警視庁のルファルジュ警部が協力して行います。
そして三部で怒涛の如く、捜査が進展し、『樽』を巡る謎が鮮やかに解き明かされ、意外性を持った犯人が判明する…
と、言いたいのですがそうはなりません。
『樽』の所在を巡って、パリとロンドンを行き来する、ただでさえ複雑で難解なロジックを解析しつつ、犯人のアリバイ工作にも同じだけの労力を費やさなければならないのです。
ただし、この作業が苦痛か?と聞かれれば不思議と答えはNo。
それは、作中で登場する探偵役が、みな超人的な人物ではなく、読者と同じように思考の迷路を彷徨っているからでしょう。
そして、抜群のタイミングで、今までの捜査で得た事実関係や、不明な点が、簡潔に要領良く登場人物の口から明かされ、読者がペテンにかかるミスリードもありません。
そうミスリードがないということは、サプライズもない。
サプライズがないということは?
読後の爽快感が少なく、退屈、と評する読者が増える、ということになります。
話は前後しますが、冒頭で本作は推理小説におけるアリバイ崩しを確立したと述べました。
アリバイ崩しがミステリの胆ということになれば、当然アリバイのある登場人物=犯人であることは、早い段階で読者に知らされることになります。
これはミステリ作家にとっておは、大きなハンデであり、よっぽど魅力的な登場人物を配役するか、奇想天外なトリックや緻密な人間ドラマを盛り込むなどして、読者を物語に引き込む工夫が必要となるはずです。
しかしクロフツは、ご存じのとおり徹底したリアリズムを追求しました。ただでさえアリバイ崩しというハンデを背負っているのにかかわらず、さらに盛り上げる要素を排除した。これでは退屈、と評されても仕方がないかのように思えます。
ここで念を押しておきますが、私は決して退屈な作品だとは思っていません。
本作は、複数の謎を孕んだ、それこそ芳醇なミステリです。樽の行方・死体の身元・樽の辿った経路・アリバイ崩し、とその謎は多岐にわたり、結末部のスリリングな展開で物語は勢いを増します。
はたして『樽』の中で熟成されていたものは、男女の愛情か、それとも犯人の冷酷非情で邪悪な精神か。
勇気を出して、その蓋を開け、90年以上の時を経て円熟味を帯びたミステリを堪能するのも良いでしょう。
では!