雲をつかむ死【感想】アガサ・クリスティ

発表年:1935年

作者:アガサ・クリスティ

シリーズ:エルキュール・ポワロ10

 

   

   パリ発クロイドン(ロンドン)行の飛行機内で起こった殺人事件を、偶然乗り合わせたポワロが解決に乗り出すという、今ではありきたりな設定の推理小説です。

 

   飛行機の歴史は、1903年にライト兄弟が初めて動力を備えた飛行機を制作してからたった30年余りで、大きく飛躍しています。第一次世界大戦で軍用機として用いられ、1933年にボーイング247が旅客用飛行機として初めてのフライトを行いました。今でこそ格安航空会社が濫立し、庶民でも簡単に飛行機を利用できる時代ですが、本作が発表された1935年当時には、まだ船や列車を用いた旅行が主流だったに違いありません。

   こうした当時最新の移動手段をミステリーの舞台としていち早く用いるあたりに、クリスティの作家としての矜持も感じられます。

 

   さて、飛行機の歴史を振り返ったところで、今作の搭乗人物(うまい)たちはどうでしょう。金貸し業を営む老婦人、伯爵夫人、貴族の令嬢、経営者、耳鼻科医に歯医者、推理作家、考古学者とその息子、美容院の助手、そして名探偵が一人。本作を読み進めていると、どこか空の旅にそぐわない人物たちに目が留まります。彼らにはそれなりの理由が用意されているのですが、ポワロと違う視点で疑ってみるのも悪くありません。

   あらすじについては、冒頭でも紹介しましたが、飛行機というクローズドサークル内で起こった事件が、いかにして実行されたか、つまりハウダニット(どうやって?)に重点が置かれています。

フーダニットについては、そんなにサプライズはないかもしれません。

よって動機は単純、犯人は妥当、トリックも賛否両論(なかなか良いと思うけど…)ですが、登場人物の人間関係が複雑に絡みあった本作においては、一つの殺人事件がもたらす影響は少なくありません。

登場人物の言葉を借りましょう。

それにしても人殺しとは、なんという妙な現象なんだろう!一人の人間が殺される。そしてそれだけのことかというと、そうじゃないのだ。思いも及ばぬいろいろな影響がある……

   一つの殺人事件を大きく膨らませ、読み応え十分な作品に仕上げるクリスティの手腕が今作でも堪能できます。

 

   原題:Death in the Cloudsの“in the Clouds”は、文字通り「雲の中に頭突っ込んでいる」状態を意味する熟語でもあり、ポワロでさえ当初は、犯人の思惑に翻弄されているのかと思われました。しかし、最終章の20ページ以上にも亘るポワロの謎解きを読んで、あらためて灰色の脳細胞の明晰さに脱帽し、クリスティのフェアプレイ精神にも賛辞を呈します。

 

   余談ですが、本作の舞台である架空の飛行機“プロメテウス”は、エルキュールの意味するギリシャ神話のヘラクレス同様、ギリシャ神話の男神です。その意味は「先見の明を持つもの」であり、その機長はもちろんエルキュール・ポワロにほかありません。

   そして“プロメテウスの火”といえば、人間の力で制御できない程の強大な力を持った科学技術の暗喩であり、第二次世界大戦でも大量殺戮兵器として利用された飛行機のメタファーともとれ、妄想家としても興味深いですね。

 

では!