名作と名高いエラリー・クイーン『悲劇四部作』は本当に順番に読む必要があるか


先日定期購読している『推理小説読んでみる?』で、エラリー・クイーンの悲劇四部作をオススメする記事を読みました。

kirakunimystery.hatenadiary.jp

 

タイトルで誤解を招いてはいけないので、補足しておきますが、今日の記事は、

「どこが本当に名作なんだ、ええコラァ」

という記事ではござあせん。

 

たしかに、『X』『Y』は、推理小説史に燦然と輝く名作だと思います。ただ、該当記事を読んで、

「もしかすると本シリーズは、順番に読む、という前提条件がなければ名作とは呼ばれなかったのでは?」

キツイ言い方をすると、海外ミステリベスト100(1991年早川書房ミステリマガジン)にもランクインしている『X』や『Y』がなければ、『悲劇四部作』としての価値は、そこまで高くないのでは?

というちょっとした疑問が沸いてきました。なので、この疑問を解消するためにも、一度シリーズの順番を逆から斜め読みしてみて、このふとした疑問の種をすくすく育ててみようと思う訳です。不作になるかもしれませんが…

※トリックや犯人についてのネタバレには細心の注意を払いますが、ストーリー展開や内容については触れております。ご注意ください。

 

 

逆順に読んで、という前提条件を課して書くわけですから、最初にご紹介するのは、もちろんこれです。

レーン最後の事件

限度はありますが、シリーズの登場人物にも初めて出会ったテイで書いていきます。


序盤からカラフルな謎の数々が、読者の興味を擽ります。私立探偵サムを訪れる奇人から始まり、警察官の失踪、シェイクスピアの稀覯本の盗難、と出そろったところで、元シェイクスピア俳優のドルリー・レーンなる聴力を失った老人の登場です。

この老人なにやら、私立探偵サムやその娘からも絶大な信頼を得ており、只者ではないオーラを感じます。その後、稀覯本の盗難がさらに事件を複雑化させ、ついには殺人事件にまで発展してしまいます。

 

さて、改めて本書が、ざっくりとした“一連の流れ”という視点で眺めずに、感想を述べることの難しさを痛感しています。

角川文庫版(越前敏弥訳)のあとがきでも訳者自ら言っているように、

ドルリー・レーン氏が過去に解決した三つの大事件をひとつ残らず読んでいないと、その魅力は半分も味わえないだろう。

は正論のように思えます(し、その通りです)。とはいえ、少しだけ気になった点がありました。それは、『レーン最後の事件』と言う割には、レーン氏の登場が少ないこと。そして、メインの探偵役がサムの娘ペイシェンスだ、ということです。

 

この配役のバランスというのは、別にレーン氏偏重でも良かった気がするのです。

70歳を超えた老齢とはいえ、まだまだ力強く聡明なレーン氏自ら、シェイクスピアの稀覯本を守るため奔走する、という展開を全面に押し出しても良かったのではないでしょうか。

 

では、なぜしなかったのか。

 

まるでルパンもののように入れ替わり・変装を登場させ、中盤以降は冒険小説風のドタバタ劇まであります。さらには盛り上がるはずの殺人事件も控えめで、クライマックス以外の全ての演出が抑え気味です。

このような構成の全ては、読者の視点を散らすのが目的だったのかもしれません。天才的なひらめきと役者というスキルを併せ持った個性的な名探偵を敢えて陰に追いやることで、その後の登場に劇的な効果を加える、特殊な演出方法だったのです。

これは単に劇的な意味合いだけでなく、ミステリの中でも散らすという機能を十分果たしています。つまりは、本書単品でも決して楽しめないことは無い作品なのかもしれません。

 


Zの悲劇

本書でも『最後の事件』と同じように、私立探偵事務所を営むサムと娘のペイシェンスが登場します。

物語の展開にそれほど特筆すべき部分は無いものの、刑務所に囚われた犯罪者、悪徳政治家、娼館の女経営者、そして電気椅子による処刑、と舞台装置の方は完璧です。

特に本書中盤に登場する、ある衝撃的な挿話は、他のミステリ作品では決して読むことのできない異質なものなので、是非じっくり読んでほしいところです。

一方、探偵としてのペイシェンスの動きには、やきもきさせられることもあり、サクサクと読み進めることができないのはマイナスポイント。ロマンス描写もあるっちゃあるんですが、クイーンの実力はこっちには反映されないように思えます。

 

また、メインの探偵であるレーン氏自体、急に消えることもあって、はたして読者は、ペイシェンスと共に進めばよいのか、それともペイシェンスを飛び越えて推理を飛躍させなければならないのか、はたまたレーン氏のみを信じればよいのか迷わされながら本書にチャレンジすることになります。

なので以上3つの勢力のいずれかに加担しすぎると、サプライズの衝撃度に多少の違いが生じてくるはずです。

とはいえ、謎解き編の演出は神懸っています

特に、消去法で犯人を炙り出してゆく際に発せられる、レーン氏の一言一言は、脳裏にズドンと響くような圧迫感と緊張感を生み出しています。そして、最後の審判を下す審判者かのようなレーン氏が印象的です。

 

以上を踏まえてシリーズ逆順で読んだ場合どうでしょうか。『最後の事件』と本書では、少しですがレーン氏の印象は違います。もちろん老いというのが影響を与えてはいますが、活力溢れるレーン氏には、正義の執行者としての暖かな光さえ感じます。

そんな過去のレーン氏、という観点から見れば『最後の事件』後に読むのも一興かもしれません。

 


Yの悲劇・Xの悲劇

正直、この二つの作品はどちらから読んでも大差ないと思いました。ということは、順番もあまり気にしなくても良いわけです。

そもそも『X』『Y』の二作とも、ミステリとしての水準がとんでもなく高いうえに、登場人物が変わるわけでもなく、ミステリ初心者でも順番を気にせず気軽にチャレンジできるミステリだと思います。

 

 


後半かなり端折ってしまった感もありますが、ここで当初掲げた疑問をもう一度思い返してみましょう。

本シリーズは、順番に読む、という前提条件がなければ、名作とは呼ばれなかったのではないか。

筆者エラリー・クイーンが本シリーズを順序通りに読んでほしかった、ということは、言わなくてもよくわかります。それは『Z』における一人称然り、『Y』から『Z』にかかる登場人物の心境の変化であったり、連作長編として(有栖川有栖氏の言葉を借りると大河ミステリ)として、読者にこの特異な形を問うた、クイーンの一種の挑戦状だったのでしょう。

 

ここで、今回の企画で、1番最後に斜め読みした、『Xの悲劇』序盤のレーン氏の台詞を紹介します。

(『Xの悲劇』解説内で有栖川有栖氏が、『最後の事件』あとがき内で越前敏弥氏が引用されているのと同じです)

 

これまでわたしは人形遣いの糸に操られてきましたが、いまはおのれの手でその糸を操りたい衝動を覚えています。作り物のドラマではなく、より偉大な創造主の手になる実社会のドラマのなかで。角川文庫版:越前敏弥訳『Xの悲劇』頁24


探偵役の台詞としては少し異質です。色々な解釈があるだろうとは思いますが、私は「創造主」そして「糸を操りたい」という衝動が引っかかりました。

 

この二つから想像するなら、レーン氏は演劇の世界から飛び出して、実社会で活躍したい以上の思いを抱いていたのではないかと思います。

それは端的に言うなら「創造主=神」になりたい。自分の正義を行使したい、自分の愛するもの(美しさ、若さ、シェイクスピアなど)を何を犠牲にしても守りたい、という少し危険な思想だったのかもしれません。

その実例として、『X』で生死を操り、『Y』では自ら断じ、『Z』では死の瞬間に立ち会うことで、「おのれの手でその糸を操る」行動を繰り返します。この全作に共通すると思われる命題が『Xの悲劇』で紹介される以上、『Xの悲劇』を1番目に読むのは必須なのかもしれません。


個人的には、逆順で読むほうが精神衛生上良いのかな、と思ったりもするのですが、そんなプライベートな事情と比べるまでもなく、『悲劇四部作』に包含された奥深さは、やはりシリーズ順に読んでこそ味わえるものです。

 

ということで、当初掲げた疑問に対する答えはこうです。

「本シリーズは、順番に読む、という前提条件があって初めて、その真価が発揮される。」

 

もちろん強引な読み方をすれば、単品でも読むことは(物理的には)可能です。しかし、シリーズに共通して設定された命題が、第1作『Xの悲劇』で明かされている点を考慮すると、間違いなくシリーズ順に読まなければ、全体の意味を成さないも同然だと思います。

なので、上記の自分なりの答えからは、「名作」というフレーズを外して、作品の「真価」と言い換えさせていただきました。

 

 

あとがき

最初は、逆で読んでも名作だよ!とならないかなあと思っていましたが、そんなことありませんでした。

絶対に順番に読むのがオススメです

…が!順番に読まなかった方(がいらっしゃれば)、是非ご感想お聞かせください。

なんかほんと順当な記事ですいません…

 

あと、この記事を書く上で、シェイクスピアについて調べていると、『シェイクスピア別人説』なるものを見つけて、こりゃドルリー・レーン別人説もあるかな?思ったのですが、そっちは何の実も結びませんでした。またしっかりと読み直す機会があれば、歪んだ観点で眺めてみようとも思いました。

 

では!