ブラウン神父の聖戦【解説】【妄想】『ブラウン神父シリーズ』

 

 

他人のほんとの罪を聞くよりほかに、することがなにもないような男が、人間悪についてなんにも知らずにいるなんてことがありますかね?

 

この台詞は、ブラウン神父シリーズ第一作『青い十字架』の中の一節です。

シャーロック・ホームズと双璧を成す短編推理小説の泰斗であるブラウン神父譚は、この台詞でもわかるように「他人の罪を聞くよりほかに、なにもすることがないような男」を主人公に据えてスタートします。

カトリックの神父という職業柄、数多くの市民たちの告解や犯罪者の懺悔を聞いたブラウン神父は、その経験と知識、そして「宗教修行の一法」と自らが呼ぶ独自の手法で、数多の犯罪と事件を解決に導いてゆくのでした。

 


推理小説の解説を始めるのに、これでもかとありきたりのスタートを切ったわけですが、今日試みたいのは、各短編の総まとめのような感想記事ではなく、ブラウン神父譚を構成する成分を分解し、そのいくつかを分析し、深読みすることで、ブラウン神父シリーズの新たな側面を見出せないか、ということです。

 

『ブラウン神父の醜聞』に掲載されている訳者による名解説「ブラウン神父の世界」では、「チェスタトンの宇宙観」という一見超難解なテーマが掲げられながらも、珠玉の短編の中からの引用と分析を通して、ありとあらゆる視点から「ブラウン神父が何を探偵しているのか」というメインテーマが論じられています。

ただ、自分みたいな低学歴の人間には、少し深奥すぎるところもあったので、ここは自分なりに「深読み」という勝手な妄想と想像を最大限活用しながら書いてみたいと思います。

 

 

ブラウン神父の性質

ブラウン神父の人となりから想像できることはないでしょうか。冒頭に紹介したシリーズ第一編『青い十字架』の初登場シーンの中では、このように紹介されています。

その顔は…まんまるで、間が抜けており、眼は…うつろ…誰の心にも憐憫の情を喚び起こさせたに違いない。

このように、一見頭脳明晰に見えない間抜けな人物が、快刀乱麻の推理を披露するというのも、一つの逆説です。さらに、普段は罪の告解を聞いて神への赦しを願うはずの神父が、犯罪者の罪を暴き法の裁定への引導を渡す、というのもまた皮肉めいています。

 

そんなブラウン神父の推理方法は『ブラウン神父の秘密』内でも明かされているように、彼自身が犯罪者になること。

それは単に犯罪心理を紐解くということではありません。実際に心の中で殺人を犯す過程を思いめぐらすことで犯罪者に成りきるのです。

だからこそ、犯罪者が張り巡らした幾重もの防御線を、文字通り神懸った推理の飛躍でいとも簡単に飛び越えてしまいます。

 

ここで注目したいのは、

このわたしが自分であの人たちを殺したのです。『秘密』頁15

の真意です。

キリスト教の教義の中には(実際には聖書の中に、だが)、姦淫(性的な不道徳)について記された箇所があって、その中では「情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と書かれています。

この例を当てはめると、心の中で謀略を巡らしたり、計画をたてたりすること自体がすでに罪なのです。だから、心の中であっても、殺人や窃盗を計画したり、実際に殺すところを想像したりするだけで、それは殺人や窃盗と同意になります。

 

いくら宗教修行の一法とはいえ、およそ聖職者らしくない推理方法です。

ブラウン神父の正体は、現世に降り立った現人神(あらひとがみ)かと思っていましたが、現実はそうではないらしい…

 

こんなモヤモヤを抱いて再び、『ブラウン神父の秘密』を読み進めていると、あることに気付きました。

 

 

ブラウン神父の保険

以下『秘密』頁16内より抜粋。

わたしの心が犯人の心とまったく同じになったと確信できるようになったとき、むろん、犯人が誰だかわたしにわかったのです。

頁17

凶行に踏みきることを自分に許しこそしなかったが

決して、ブラウン神父自身が心の中で殺人を犯したり、それを実行に移す行為そのものを想像していないことに注目してください。

ここでは、自分と自分の心を切り離して考えている?もしくは「自分」を俯瞰で捉え、もう一人の「自分」が眺めているかのような書き方なのです。

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 THE・KOJITSUKE!

 

そして続く頁18には、そんな多重人格的なブラウン神父を示すようなセリフもあります。

いつも一個の人間の内部にあってその手足をあやつっているのが、ブラウンなる存在でしてな。

やはり、探偵としてのブラウン神父と心の投影者としてのブラウン神父は、陰と陽、善と悪という表裏一体のものを模した形で彼の内奥に存在しているのかもしれません。

 

では、なぜそんな面倒くさい手法を取るのか。やはり聖職者だからでしょうか。

よく思い返してみると、この方法のことをブラウン神父は探偵法ではなく、「宗教修行の一法」と言っていました。どういうこと?

 

 

ブラウン神父の聖戦

先ほどの台詞の続きを見てみましょう。

殺人犯のと同じ激情と格闘するのです。― ふらちな犯罪人なるものを自らのうちに見つけだしてひっ捕らえ、こいつが暴れたり狂いだしたりしないよう ― 自家薬籠中のものとしてしまうことを念願とするようになるまでは、人間というものはどこまで行ってもだめなものです。

 

もう一人のブラウン神父を犯罪者とシンクロさせるだけではありません。同時に、犯罪を犯す心と戦い、憎悪という悪魔に抗い、思うままにコントロールしようと常に戦っているのです。それこそ永久に完成することのない「宗教修行」であり、そこにこそブラウン神父という稀有な探偵の真の姿があります。

 

短編の中で、ブラウン神父が考えに耽って無言になる瞬間が無かったでしょうか。

シャーロック・ホームズのようにわざと真実を隠したり、もったいつける目的はそこにはありません。

その瞬間、ブラウン神父は、真相の究明と同時に、自身の不完全な部分と格闘し、葛藤し、そして屈服させる聖なる戦いに並行して挑んでいるようにも思えます。その間を読み取ろうとして各短編に挑むと、なお作品の良さに感じ入るのではないでしょうか。

 


ブラウン神父譚の魅力は、決して珠玉のトリックたちや唯一無二のアイロニー、白眉のどんでん返しだけに宿っているわけではありません。また、単純な犯人と探偵との知的闘争だけで構成されているわけでもありません。

 

それは、探偵が自分自身の弱さと闘い、さらに読者にも自らと戦うことを促してくる、というところに在ると思っています。

 

結果として、正義対悪という単純な構図ではなく、誰しもが内面に巣食う悪魔的な心と正義を愛する気持ちを対立させ悪を屈服させるために、皮肉や逆説に満ちた訓話が収められているのです。

文字通り聖典のような作品群と言えるかもしれません。

 

だからこそ、登場する犯人たちの多くは、ありきたりの推理小説のように、作者の思い通り(計算高く)失態を犯し、秘められた思いを曝け出すことはありません。ほとんどの作中で、一見ミステリのお約束のように提示される手がかりも、実は犯人たちの内面から滲み出る生(なま)の部分そのもののように思えます。

 

トリック創案の権威としてブラウン譚を読むことは間違いなく正しいはず。ただ、そういった推理小説の枠組みを超えて、ブラウン神父伝説のサーガ的な作品としても複数回楽しめるシリーズです。

 

では。

まずはこちらからどうぞ。

 

やっぱり『ブラウン神父の秘密』だけは読んでほしい。名文です。