悪党は殺人者か独裁者か【感想】アガサ・クリスティ『死との約束』

発表年:1938年

作者:アガサ・クリスティ

シリーズ:エルキュール・ポワロ16

 

   前年に発表された傑作長編『ナイルに死す』の影に隠れてしまってはいますが、本作だって負けてはいません。

 

まずは

粗あらすじ

エルサレムに滞在中のポワロが耳にしたのは、殺害計画を練るひと組の男女の不吉な囁きだった。二人の計画はただの虚言かそれとも…ヨルダンの古代都市ぺトラで起こる謎めいた事件にポワロが挑む。


   まず、発端が刺激的です。こんなに堂々とした殺害予告で始まるとなると、いざ事件はどんな破滅的な、劇的な展開で起こるのだろう、と期待してしまいます。

   褒めていいのか悪いのか、いつものクリスティどおり、事件が起こるまでは、懇切丁寧にキャラクター描写がつらつらと続くためスピード感は遅目、というか遅いです。ただ、人を動かすことにかけては、本作のクリスティの筆の冴えは天才的で、今までの作品の中でも随一と言って良いと思います。

   というのも、よく「紋切型」と揶揄されるクリスティ作品の登場人物たちですが、本作では誰もが尖りに尖っています。さしずめ多種多様な生き物が押し込められた動物園ばりの種類の多さ、個性の豊かさを堪能できるでしょう。

 

   粗あらすじではいつも粗めにしか筋を紹介しないので省いてしまいましたが、物語に最重要であるボイントン一家の面々は、精神科医が見れば、全員を標本にしたいと熱望するほど特殊性を持った一家です。一行に同行する友人のコープ氏だってまともなようで、内情は計り知れません。一家に執着する女医サラや著名な精神科医ジェラール博士も、ボイントン家を中心に発生している暗黒空間にがっつり引き寄せられています。

 

   本作では誰もが、創作物のいち登場人物ではなく、殺人事件の重要参考人として作中に息づいています

   以前どこかの批評サイトで、「本格ミステリが、キャラクターや“人生”を描くことに力を入れ始めたら、もうそのシリーズは燃え尽きている。」という辛辣な評を目にしたことがあります。もちろん、トリックや秀逸な手がかりで勝負してほしいというのも頷けるのですが、キャラクターがリアルに動かなければ、せっかく練られたトリックや残された手がかりだって、空虚なものになってしまうに違いありません。そして、キャラクターがリアルに動くためには、彼らの人生をしっかりプログラムしておく必要があるでしょう。

   たしかに本作はキャラクター描写偏重で、トリックだけ切り取るとやや陳腐なため、本格ミステリに求めるものが読者によって違う以上、客観的に見ても傑作とは言い難い作品です。

   とはいえ、セイヤーズの作品にも多くみられる、登場人物を好き放題動かして決定的な謎に着眼させない、という手法は、書こうと思っても書けない作家としての絶大な力量が求められるもので、クリスティの読ませる筆力には圧倒されます。だからこそ、ボイントンという巨大なブラックホールに意識を吸い込まれ、あの見事なサプライズに結びつくのでしょう。

 

   余談ですが、本作中には『オリエント急行殺人事件』の描写があります。未読の方はご注意ください。はたして、真の悪とは独裁者か殺人者か。クリスティ(とポワロ)が自らに課した一種の呪いとの向き合い方にも注目です。

 

 

 

 

 

以下超ネタバレ

《謎探偵の推理過程》

本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本作を読んでからお読みください。

 

   ふむふむ。最初っからボイントン夫人の死亡フラグが立ちまくっている。いつ死ぬのかとドキドキしながらミステリを読むのはいつぶりだろうか。素晴らしい出だしである。

 

   サラ・キング医師は、てっきりポワロの助手役かと思ったら、がっつり事件の渦中に身を投じてきた。ロマンスは安直だが、クリスティにしては珍しいプロットだ。ジェラール博士の方もいつもまにか巻き込まれている。

 

   150頁を超えてやっとボイントン夫人が死んだ。ぺトラ遺跡付近を散歩しに回った、サラ、ジェラール博士、ジニーを除くボイントン家一行が容疑者候補か。ひとり残ったジニーも怪しいが彼女が犯人ならあからさますぎるような気もする。最初にテントへと帰ったジェラール博士は、間違いなく怪しい。仮病の可能性も十分ある。

 

   ポワロの捜査が開始し、関係者の証言から再現すると、散歩から帰ってボイントン夫人と接触した(とされる)家族の面々は、レノックス、ネイディーン、キャロル、そしてレイモンドだ。彼らにジニーとジェラール博士を加えた6人が最有力候補か。

   もしジェラール博士が犯人であれば動機は、ジニーに対する偏愛だろう。ただトリックは仮病という陳腐なものだし、なにより事件性を訴え出たのがジェラール博士自身なので合理性に欠ける。レノックスは一見意思が弱そうだが、愛するものを失う恐怖に駆られての犯行と考えると頷ける。ネイディーンは容疑者たちの中で一番実行力があるように思える。キャロルレイモンドは、当初の計画の首謀者であり、もちろん二人なら実行できただろうが、レイモンドはレノックスとは違い、愛を手に入れて心を入れ替えている。失う恐怖を持ったレノックスとは動機の強さが違うのではないか。また異常性を垣間見せるジニーが犯した殺人という線も十分あり得るし、それを隠そうとする兄弟たちという構図は納得しやすい。だからこそ、誰もがボイントン夫人に声をかけた時に「生きていた」と嘘をついていると考えると、なおありそうなことに思える。

 

   もう一つ過ぎったのが、ボイントン夫人の自作自演という考え。

  1. 理由不明の束縛からの解放
  2. 「わたしは決して忘れませんよ」という不特定多数に向けたように聞こえる一言
  3. 凶器の注射器の行方と、庇いあっているかのような兄弟たち

 

   これらは、策略深いボイントン夫人が仕掛けそうな罠であり、彼女にとって誰が犯人だと疑われても関係なかったのではないか。結局は誰か、もしくは全員が共謀したとみなされて死刑になるだろう。自分の死期を悟った彼女の非情な策謀であり、注射器を発見した家族の誰かは、お互いを疑い合って、事実とボイントン夫人の死を隠匿したのだろう。

これに決まりだ。

 

 

推理予想

ボイントン夫人(自殺)

結果

惨敗

   そんなわけないか。中々イイ線行っていると思ったのだが、見事にしてやられました。前述の3つのポイントのうち2つは違った真実を的確に指し示していました。本作最大の欠点は、決定的証拠の欠如で、ここまでアクロバティックな解決編なら絶対的な物証が欲しかったところです。あと、犯人が思ったより門外漢で、やや飛躍しすぎな気もします。もう早くから身近にいれば尚良かったかもしれません。

   まぁこれは素晴らしいサプライズへの嫉妬のような戯言です。聞き流してください。

 

では!