発表年:1938年
作者:パーシヴァル・ワイルド
シリーズ:リー・スローカム検死官2
さてさて、ようやく読むことができました。
本作は、江戸川乱歩が1935年以降のベストテンにランクインさせていたり、ミステリ嫌いのレイモンド・チャンドラーが絶賛していたりと、かなりの傑作のようです。そして現代においても、多くのミステリファンから高評価を得ており、かなり期待大で読み始めました。
あらすじは必要ないでしょう。タイトルの検死審問の意味さえ把握しておけば読み進めるのに何の障害もありません。検死審問の目的は、事件性の有無にかかわらず(これが重要)死因の究明を行うことであり、決して犯人を捜し出すのが目的ではないのです。
物語の開幕は緩やかで、丁々発止の法廷ミステリとは程遠い展開を見せます。激しい議論の応酬や、鋭い異議が飛び交うザ・法廷ミステリではありません。目次を見てもわかるのですが、本作は、証人の証言と検死官一同の意見交換のみで構築されており、読者はそれらの証言などから事件を再構築し、真相を究明するスタンスで事件に臨みます。つまり、私たちは検死官リー・スローカム閣下に集められた陪審員の一人にすぎない、ということです。
本作の特徴の全てを物語っているのは、序盤の「非情な刈り手の供述」です。自由奔放に喋りまくり、事件に関係の無いように思えるところから証言を始める証人には、笑いを禁じ得なません。しかしながら、そもそも現実とはそういうものなのかもしれないとも考えられます。
何が重要で何が重要でないかを取捨選択できるのは、神様か推理小説の書き手だけです。それらがあからさまな作品は、リアリティに乏しい作品になってしまい、評価の低い作品になってしまうのがオチですが、本作は全く違いました。最後まで読み進めて初めて、作者の巧妙な伏線と手がかり配置の素晴らしさに驚愕します。初読で全てのヒントに気付くことはまずないでしょう。
また、巧妙な伏線というミステリに重要な要素とは別に、ユーモラスな描写の数々なくして本作は語れません。証言自体の構成が面白いのはもちろん、作家ベネットの作品に対する痛烈な批評や、ベネットの尊大で圧倒的な証言からは、確かに作者の類いまれなユーモアのセンスを感じ取ることができます。特に、ささやくような声が特徴の執事タムズの証言では、脱力系の笑いも駆使され、小さく拍手したことを覚えています。
杉江松恋氏が解説でこのように述べていました。
ユーモアの糖衣にくるまれた中に、ミステリの謎という強固な芯があったことが判る
簡潔明瞭で的を得た指摘ですが、もちろんこれだけでは、本作の全てを表せません。加えて言うなら、ミステリの謎という強固な芯をくるんだユーモアの糖衣を、何層にも積み重ねた、言うなればパイ生地のような作品なのです。
甘いこってりとしたクリームのようなユーモアと、高級感のある香り高いパイ生地のようなミステリが絶妙にマッチしつつ、それぞれの要素が究極的に磨き上げられ、かつ最上のレベルまで高められています。
何度読んでも飽きることなく、再読・再々読してなお楽しめる不朽の名作でした。
ネタバレを飛ばす
以下超ネタバレ
《謎探偵の推理過程》
本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本作を読んでからお読みください。
冒頭の『二人の検死官との夕べ』の中の一文
聡明な読者ならば、わたしが解決を示すよりはるかに早く見抜いてしまうに違いない
そして
わたしがおもに関心を持っているのは人物とその背景
の二つからは、ワイルドがアントニー・バークリーのようなトリッキーな作家なのかもしれない、という印象を受けた。さてどうだろうか。
純然な法廷ミステリと思って読み始めたが、そうではないらしい。全く事件に関係ないような証言が続くが、これははたしてただのユーモアかそれとも…
事件の全貌を把握するのに加えて、多少時系列が前後するため、なかなか事件を思い浮かべるのが難しい。ドワイトを狙撃するチャンスは全員にあったことはわかったが、動機の方は見えにくい。
事故は…ないか。さらに第二の被害者ミンターンによる犯行というのも信じがたい。巧みに事故死ならびにミンターンによる犯行へと、筋道立てられた緻密な計算が薄らとだが見える。となると、証言の中で、ドワイトとミンターンに対する誤ったイメージを刷り込まれていた可能性がある。ミンターンに関しては、登場人物のほとんどが嫌悪感を示しているので間違いはないと思うが、ドワイトに関しては、どこか掴みどころのない印象を受けた。
ドワイトとベネットが事実上婚姻関係?かのような描写があったが、真相はどうだろうか?どこか虚構である気がしてならない。さらに、終盤ベネットの証言を読んで、その予想は確信に変わった。
全財産をドワイトに遺すという遺言書の作成を、ドワイトは望まなかった。さらにミンターンが「わたしが撃った」とベネットに告白した。これらは全てベネットの口からのみ語られている。それら全てを嘘だと仮定すると、ベネットこそドワイトを殺害する動機(なんらかの復讐か憎悪)があった人物であり、殺害の罪をミンターンに負わせようとしていた、と考えることができ、全てに辻褄が合うような気がする。
ただベネットがドワイトとチャールトンを撃ったというのが、やや突拍子もない推理な気もする。はたして?
推理結果
引き分け
大筋は当たっていたが、ベネットの経歴と夫の存在、さらに二挺目のライフルに至る推理には脱帽。細やかで美しい伏線の数々に瞠目。豪胆で風格を備えたミセス・Bに敬礼。そして、まさかの名探偵だったリー・スローカム閣下にも拍手。
全てのピースが収まるところに収まった見事な一作でした。
ネタバレ終わり
では!