『船から消えた男』F.W.クロフツ【感想】フレンチ警部は幸運

1936年発表 フレンチ警部15 中山善之訳 創元推理文庫発行

 

 

 原題「MAN OVERBORD!」とは、船乗りが船からの落水事故に際し発する定型句のようです。訳すと「誰か船から落ちたぞ!」といったところでしょうか。そして、これがタイトルということは、本書の事件の本旨も同様です。ただクロフツらしいのは、すぐには誰も船から落ちないこと。もちろん船から落ちたことは大事件なのですが、その事件の裏にある“金の卵を産むニワトリ”を巡る犯罪の影が重要になってきます。

 金に成るアイデアを端に発する事件と言えば同氏の傑作長編『サウサンプトンの殺人』(1934)が思い出されますが、あちらは歴とした企業犯罪なので比べると小粒な感は否めません。とはいえ、アイデアは奇抜で今の時代に置き換えても画期的。当時の世情も考えると、ガソリンの運搬や生産にかかるコストに人々の興味が向いていて、かなりキャッチーな題材だったのだと想像できますし、シンプルに面白い発想だと思うんですよね。クロフツらしい実直で淡々とした語り口とリアリティある文体のおかげもあって、実験パートだけでもワクワクしながら読めました(化学に強い人なら齟齬が見えちゃうのかな)。

 

 肝心の事件ですが、まず事件性があるのかないのか、ただの事故なのか、それとも自殺なのかという、正直どうでも良いことにまで100頁近く費やしてしまうところに、クロフツの生真面目さがこれでもかと詰まっています。もちろんこの丁寧過ぎるほど丁寧な作風に惚れたわけですから別になんてことはないんですけど、「(今のヤングな若者に読まれないのは)こういうとこだぞ!」と小突きたくはなってきます。

 

 一方で、作者クロフツのフレンチ警部に対する愛も感じますねえ。読者からしてみれば、船から落水した事件の背景も、関係者たちの繋がりも、序盤で明らかなわけですが、主人公フレンチ警部にとっては1から、いや0からのスタートです。彼がベルファストに乗り込む経緯や、その時の感情、事件に対する熱意、意気込みなんかを感じ取りながら、彼がどう真剣に事件に取り組むか、という見方をしても案外面白いですよ(投げやり)。

 

 もう一つ、今までのフレンチ警部ものと違って楽しめるポイントは、仄かな“探偵がいっぱい”要素です。他人の縄張りであるベルファスト警察署と協力しなければならない状況でフレンチ警部を助けるのは、『マギル卿最後の旅』(1930)でも登場したマクラング刑事(本書では昇格)。また、行動派のヒロインや被害者の親族なども乗り出しフレンチ警部を真相へと導きます。

 フレンチ警部は(愛妻との旅行中にもかかわらず)、その恩を忘れないとばかりに、一度は解決したかに見えた事件を掘り起こし、誰も不利益を被ることのないよう細心の注意と気遣いをもって再調査を始めます。このあたりのフレンチ警部の温かさも本作の見どころです。

 

 事件のスケールの小ささ(アイデアは巨大)や、真相の見え易さなど、ボリュームに反して肩透かしなところもなきにしもあらずですが、その分登場人物たちそれぞれの視点が挿入されるため読みやすいうえに、フレンチ警部の幸運ぶりと人間味ある手腕を堪能できる満足度の高い一作です。

 

※そもそも本作には、過去作『マギル卿最後の旅』のネタバレがございます。読む際はご注意ください。

 

ネタバレを飛ばす

 

 

 

以下超ネタバレ

《謎探偵の推理過程》

本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本作を読んでからお読みください。

 

 冒頭の事件背景からフェリスの怪しさが止まらない。アイデアは面白いが、そんなのなんらかの詐欺に決まってる。騙されるなパム&ジャック!

 

 定石どおりプラットは死に、生前にいざこざのあったジャックが最有力容疑者に。

 事件の性質から推理すると、プラットが死ななければならなかったのは、間違いなくガソリンの不活性化実験の結果によるものだ。ひとつはその実験がペテンだとプラットは見破り、バレたフェリスとマクモリスが彼を消した。もう一つは、プラットが研究成果を盗み、情報漏洩を防ぐためフェリスとマクモリスが殺した。このどちらかだろう。

 中盤、プラットが生前に送った電報「例の品を入手」が明らかになり、後者の説が高まる。

 

 では船のトリックは何か。まず、船に乗り込んだとされるプラットはプラットではなくフェリスかマクモリスだろう。これで、ジャックが船でプラットに会いに行っても会えなかった理由と、船の乗客の誰も船から人が落ちたのに気づかなかった説明がつく。ジャックの車のタイヤをパンクさせたのも、船に乗り込み、細工する時間稼ぎに違いない。船から降りた方法はわからないが、たぶんこれで決まり。

 

 

推理

フレッド・フェリス

エドワード・マクモリス

 

真相

 正解。うむ。裁判用の証拠固めが、解決した後に出てくる以上、読者による論理的な解決が望めない作品だったが、これ以上手がかりがあれば、逆に甘すぎだろう。

 

 一つ、自分が完全に見逃していた点は、序盤のジャックとプラットのいざこざの中でパムが瞬間記憶的に記録した実験室の描写。完全にノーマークだった。

 たしかに、再登場は終盤のパムの章だが、これこそパズルの最後のピース。あと一つ、あと一つ決定的な違和感があれば……という逼迫した状況で、警察に再捜査を踏み切らせる決定的な手がかりを配したプロットは巧みだ。

 

 

 

 

  ネタバレ終わり

 ミステリの多くは、作家という神の机上で、解決へ向かって真っすぐに進むことが多いですが、フレンチ警部シリーズは違います。間違い、踏み外し、明後日の方向に突き進むのは日常茶飯事です。

 一方で、間違いに気づき、軌道修正し、正しいことを成したいという意思をもって物事を達成できるのも人間だけです。フレンチ警部は、そんな正しいことへ向かってゆく意思がとても強いと思っています。だからこそ、いつだって諦めない。

 そしてその根底にあるのは、愛だと思ってます(何言っちゃってんの)。妻を愛し、仕事を愛し、旅を愛し、仲間を愛し、自然を愛するフレンチ警部には、憧れすら感じるほど。クロフツ(フレンチ警部)を聖人君主みたいに高めるつもりはありませんが、いくら「死」を扱ったミステリとはいえ、ちゃんと温かいエネルギーを感じることのできる作品だってちゃんとあると思っているのです。

 

では!