『メインテーマは殺人』アンソニー・ホロヴィッツ【ネタバレなし感想】100年先も読まれ続ける等身大の超傑作

2017年発表 山田蘭訳 創元推理文庫発行

 

 

 2018年の海外ミステリランキングを全て制覇した『カササギ殺人事件』からわずか1年。またもやアンソニー・ホロヴィッツは怪物を世に解き放った。今度は、作者アンソニー・ホロヴィッツ自らがワトスン役(語り手)を担い、シャーロック・ホームズを彷彿とさせる探偵ホーソーンとタッグを組んで難事件に挑む。

 

粗あらすじ

老婦人が自身の葬儀を依頼した、まさにその日に殺された。非公式な立場で捜査に介入する元刑事ホーソーンは、親交のあった作家アンソニー・ホロヴィッツに、本件の作品化を依頼する。いかにも推理小説映えしそうな魅力的な題材に興味を魅かれ協力を始めるアンソニーだったが、一匹狼で他人と慣れ合わなず偏屈で傲慢で無遠慮なホーソーンとは中々そりが合わず捜査も本作りも難航してしまう。はたして、老婦人は何故その日に死ななければならなかったのか、そして本は無事完成するのか。

 

 

 『カササギ殺人事件』ではクリスティの再誕、そして『絹の家』ではシャーロック・ホームズの正当な後継者のお墨付きをもらい、今最も輝いている海外ミステリ作家と言っても良いアンソニー・ホロヴィッツ。そんな作者がこの度満を持して送り込んできた新シリーズの一作目、ということで否が応でも期待値は上がった。しかし、そんな世間の目も他所に、ホロヴィッツはいたって等身大のミステリを投げてくる。

 ミステリを生み出すにあたって、この「等身大の」というのがものすごく難しいことなのではないかと思っている。100年以上もの歴史を誇るミステリにおいて、数多のマニアたちを唸らせるミステリを書く場合、どうしても、読者の思考レベルの範疇を超えた、珍しくて、突拍子もなく、斬新なものを探したくなるのではないか。古典ミステリを読んでも、1900年代でさえ、当時最新の科学技術や毒物、舞台装置や移動手段等をミステリに絡めた作家は数知れず。むしろ、時代の移り変わりや進歩を作中に取り込み易いジャンルの最たるものがミステリだとも思っているので、ここに何の文句もないが、それでも、既存のものだけを用いてミステリを生み出すのは、現代ではかなり困難な所業だろう。それを本作では堂々と、また、フェアプレイを完全に意識した上で遵守しながらも遊び心も忍ばせつつ、論理的にも美しく完璧に仕上げてしまっている。文句無しの傑作、今年読んだ海外ミステリでもダントツの出来だ。

 

 ここまで抽象的なことしか言っていないので、ここからは「等身大の」というワードを中心にもう少し物語に踏み込んで書いてみたい。

 

語り手=作家

 本作でアンソニー・ホロヴィッツは、語り手としてではなく、作家アンソニー・ホロヴィッツとしての顔を見せてくれる。作家人生の変遷から、現在進行中の企画、家族構成や担当編集者との付き合い、また自身の担当したドラマや書籍の裏話まで(どこまで本当かはわからないが)赤裸々に披露してくれる。

 本作がこの手法を最大限かつ効果的にミステリに用いていることは言うまでもない。ひとつには、虚実の境目が限りなく曖昧になる点。

 普通あまりにリアルすぎるミステリを書くときには、大抵第一章が始まる前に「この物語はフィクションです」という注釈があることが多いが、本作にはそれがない。(リアル志向のF.W.クロフツの作品にはよくある)とはいえ、見過ごせない超有名な固有名詞や実在の作品がどしどし登場するので、読者は「え?これマジなの?どっち?」と毎回頭を悩ませることになるのだ。

 単純に推理パートは全てフィクションだろう。しかし、ホロヴィッツの書きぶりを体感すると簡単にそうは思えない。

 例えば、警察組織の内情を語る場面があったとする。ホロヴィッツは、ある場面では作家ホロヴィッツとしてドラマ脚本をブラッシュアップするための部材として/小噺の一つとしてその情報を読者に提供してくれる。一方で、元刑事ホーソーン周囲を描く場合には、警察の話とはいえ、ミステリにおけるミスディレクションにもなりそうな(気配がある)のだ。こうなると、同じように事実に見えていても、どこに仕掛けが施されているのか、全く推理できない。このような場面が多々あるのだ。作家と語り手の双方の役割を忠実かつ均等にこなしつつ、ここには全くムラがない。

 

語り手=作者

 もう一つ忘れてはいけないのが、作者ホロヴィッツが自ら語り手を担っている点。どんなミステリでも、語り手は信頼できないものである。作中で、語り手は都合の良い手がかりしか見ず、読者にとって都合の悪い手がかりは全て見落とすのが常だ。しかし、此度のホロヴィッツは、全てを見落とさない。語り手として一級品であるだけでなく、作者としても一切フェアプレイ精神を書くことはない。読者を恣意的にミスリードする過度な誇張や虚飾がないという意味でも等身大、本格ミステリのあるべき姿を体現している。

 もちろん、作者が語り手だからこそできる芸当もしっかり用意されている。これはオチまで抜け目なく整備されている。

 

 

 

 最後に、「等身大」とは関係がないが、どうしても古典ミステリとの対比にも思いを巡らしたい。

 手がかりの配置方法や細やかさ、行き届いた配慮は間違いなくエラリー・クイーンを思い出させる。自身の職業を生き生きとリアリティ溢れる筆致で描くさまはF.W.クロフツだろうし、作者が語り手、で言うと間違いなくS・S・ヴァン・ダインのオマージュになる。もちろん人間関係の綾を解き解す精妙な手法はクリスティのそれに近い完成度を誇るし、鮮烈でグロテスクにも感じる死の描写はカーに通じるものもあるかもしれない。探偵と語り手の関係は言わずもがなだろう。

 これは、良いとこどり、という意味では決してない。作者ホロヴィッツがわざわざ意識して書いたようにも感じないが、それにもかかわらず、ここまで名だたる推理作家たちの影を感じてしまうのはなぜだろうか。

 

 これはあくまでも個人的な体感だが、本書の特殊な手法でもある「作者=語り手=作家」が大きく影響しているように感じる。

 作中ではホロヴィッツは、作品を生み出すときの葛藤や挫折、作品の成功とそれによって得られる栄誉、また作家自身のプライベートを明かしてくれる。それらを読むとき、もしかするとクイーンやカーやクロフツも同様だったのかもしれないと感じずにはいられない。ホームズを生み出し、そして殺したくもなったアーサー・コナン・ドイルの苦悩や、6作しか優れたミステリは書けないと言いながらも12作書くはめになったヴァン・ダインの憂鬱が、作者ホロヴィッツの心情吐露の描写をとおしてほんの少しわかった気がする。等身大の一人の人間の姿を本を通して垣間見ることは、まるで往年の伝説たちの生き様までも写してくれているようで感慨深いものがあった。

 

 

 本国イギリスでは、すでに本シリーズの第二作が刊行済み、と聞く。

 本書には特段物珍しさはなかった。白眉のトリックがあるわけでもない。しかし、作者ホロヴィッツの、手がかりや物語をバラバラに分解し、再構築し、一つの画を創り上げる技量の高さは、まさにホームズ級。つまり、間違いなく後世に100年を超えて伝わるであろう大作家だ。ぜひとも東京創元社には、これからもどんどん邦訳化を進めてもらいたい。

 

では!

 

メインテーマは殺人 (創元推理文庫)

メインテーマは殺人 (創元推理文庫)