真のクラシック・ミステリ【感想】オースチン・フリーマン『オシリスの眼』

発表年:1911年

作者:オースチン・フリーマン

シリーズ:ソーンダイク博士2

訳者:渕上瘦平

 

 

1.粗あらすじ

高名なエジプト人学者べリンガム氏が失踪してからはや二年。不可思議な失踪事件が人々の記憶から薄れ始めた矢先、残忍な事件の痕跡が見つかった。二つの事件にはどんな関連があるのか。彼の遺産を巡る相続問題が再び顔を覗かせた今、その解決を依頼されたのは、弁護士であり法医学者のソーンダイク博士。はたしてソーンダイク博士は、残された「オシリスの眼」をはじめとした手がかりを元に、無事事件を解決できるのか。

 

ソーンダイク博士の第一長編『赤い拇指紋』から時間を空けることなく第二長編に挑戦できた。やっぱり面白い。上質なクラシック・ミステリに出会えると自然と顔が綻ぶ。

ちなみに本作は、講談社「IN☆POCKET」の「2017文庫翻訳ミステリー・ベスト10」において、なんと第9位。ランクインした他の作品と比べても、圧倒的にクラシックだ。100年前の作品と聞くとなお驚かされる。

 

2.クラシック・ミステリ復興の兆し?

少し話が逸れるが、以前海外ミステリのすすめ

なる記事を書いたことがあって、その中では海外ミステリの魅力、オススメする理由を綴った。その三つ目の理由が翻訳者の情熱だったのだが、本作はまさに翻訳者の情熱がこれでもかと詰め込まれた力作だろう。

何回も言うが、100年という時を経て、今一番熱量が、そして作品の良さが伝わりやすい言葉たちで綴られたからこそ、この結果に繋がっているとすれば…

ここには、原作の素晴らしさはもちろんだが、古いが真に価値のあるものを、現代にタイムスリップさせた翻訳者の功績が間違いなくあると思うのだ。

 

訳者の渕上氏は、「海外クラシック・ミステリ探訪記」なるブログも運営されていて、ここにも本作のあとがきに書き切れていない情報がびっしり詰まっている。是非、この機会に『オシリスの眼』と併せて読んで、素晴らしいクラシック・ミステリの数々に触れて欲しい。

そして、クラシック・ミステリ再評価の気運が高まれば、続々とソーンダイクものの未訳長編が翻訳されるかもしれない。

なんか締めみたいな様相になってきたが、ここからが本題。申し訳ない…

 

3.本作を構成する要素

を分解していくと以下のようになる。

ミステリアスなエジプト史というエッセンス、猟奇的でグロテスクな雰囲気、語り手のロマンス、論理的で帰納法を駆使した解決、唯一無二のトリック、そして劇的な結末。

これらの要素が渾然一体となった本作は、クラシック・ミステリの観点から歴史的な一作というだけでなく、今尚脈々と受け継がれている本格ミステリの正統として全ミステリファン必読の名作だ。

 

ミステリアスなエジプト史というエッセンス

何を題材にミステリを書くのか。これは全てのミステリ作家にとって悩みどころだろう。名家の諍いか、家庭内の不和か、それとも男女の愛憎劇か、国家間の軋轢か。

もちろん、謎と解決を中心としてさえいれば推理小説の枠組みからはみ出ることはないが、その中に流れる物語は、やはり太く大きい柱であることが必要だろう。

 

そして、出来上がった物語に中東のエッセンスを混ぜさえすれば、読者の興味を惹くのになんの障害もない。

ミステリが黄金期を迎えた1920年以降に目を向けてみると、アガサ・クリスティの『メソポタミヤの殺人』以降数作や、ヴァン・ダイン『カブト虫殺人事件』、エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』など、中東が絡んでいるだけで、導入部は読者のテンションを高く保たせることに成功しているように思える。

そして1911年というミステリの誕生期にあって、いち早く中東を題材にミステリを生み出すところに、フリーマンの作家としての先見の才を感じてならない。

 

では何故、中東という題材だけで読者の興味を保持できるのか。それは、今でも中東が未知の世界に在るからではないだろうか。

たとえば、西アジア(イラン・イラク・ヨルダン・シリアなど)は、イラク戦争以降たびたび起こる戦争・内紛によって歴史的建造物が次々破壊され、完全な復元は不可能に近く、今後も私たちが直接触れることはできないかもしれない。クリスティの作品を読んでいると、バグダッドやダマスカスに行きたくてたまらなくなる。

 

また、エジプト史はと言えば、時代を経て新事実が発表され考証が進んできたとはいえ、あくまで憶測は憶測でまだまだ未知の世界なのではないか。エジプト神話に感じるミステリアスな空気だって、今尚不変のもの。

つまり、一部の専門家を除いた現代の一般的な読者は、1911年に「オシリスの眼」を読んだ人々と、実はそれほど変わりない目線で本書を読めるのではないかと思う。

 

本作は決して新鮮ピチピチな作品ではないかもしれないが、クラシックでありながら、未知で不可思議なものを覗きこむように読むことができるに違いない。

 

猟奇的でグロテスクな雰囲気

この箇所は、本作の謎の核心に触れる部分でもあり、ネタバレ回避の為詳細は省略するが、事件の経緯そして推理の過程には、想像力を掻き立てられるものがある。

 

少し話は逸れるが、英国推理小説の祖とも言えるシャーロック・ホームズ作品に目を向けてみると、ホームズものは、推理の部分を取っ払ってしまうと世紀末的な異常性とグロテスクの集合体でできているように思う。

恐怖感をあおる文体や素描、目を覆いたくなるような醜悪な容姿や、ブラックユーモアの数々が其れだ。

犯人や事件そのもの、動機にバランス良い異常性、グロテスクさ、相容れないな、という嫌悪感が添えられていると、そのミステリは格段に読み易く、惹きつけられる作品になる。

 

「オシリスの眼」では、そんな直接的な表現は少なくても、いち読者として推理をしてゆくと、必ず、なんだか薄気味悪いな、くらいの調度良い気持ち悪さにぶつかる。そんな気味の悪さが、事件の進捗を通じて少しずつ小出しにされるため、結果として、読者の興味を高め維持することにも繋がっているのかもしれない。

 

語り手のロマンス

推理小説を読み易くするための増強剤として、登場人物のロマンスが果たす役割は小さくない。

ロマンスの要不要自体が賛否両論あるとは思うが、個人的には、陰惨な殺人事件に対比した清涼剤になることが多いので賛成だ。

また、男女の会話や素振り(付き合い方)は、当時の風俗描写を補足する役割を担うこともあるし、ロマンス自体がミステリにおけるミスディレクションとして機能することも珍しくない。

 

そして本作では、第一長編『赤い拇指紋』に引き続き、語り手のロマンスが挿入されているのに驚かされた。

題材も登場人物も舞台も丸っきり違うとはいえ、2作連続でロマンスを挿入するあたり、フリーマンの枠にとらわれない柔軟な発想が窺える。

推理小説というジャンルが不確定だった時代とはいえ、推理小説に不要な要素をばっさばっさと切り捨てるのではなく、謎とその解決を盛り立てるための装飾として様々な方法を模索し実践するスタイルにも好感が持てる。

特に、本作で登場する博物館デートは、まんざらミステリに無関係ではないので、適当に読み進めるのは厳禁だろう。

 

さらに、本作では、ロマンスを支える(見守る)人物に、また違った角度から光を当てることに成功している。そうソーンダイク博士だ。

ホームズ時代から受け継がれる超人探偵の一人ではあるが、

「私の専門に関わる事案」頁178

と言いながらも苦境に喘ぐ一家を助けつつ、恋する紳士に的確なアドバイスをするソーンダイク博士には、血が通ったぬくもりを感じる。

この点、黄金期の作家ドロシー・L・セイヤーズが、自身の創造した名探偵ピーター・ウィムジィ卿に付加したような、人間臭い、人間らしい名探偵を描くことに、フリーマンはすでに着手していたように見受けられ、これもまた先鋭的で評価されるべき点かもしれない。

 

論理的で帰納法を駆使した解決

論理的・帰納的推理の点については、訳者の渕上氏が微に入り細を穿ったあとがきを残しておられるのでそちらを参照していただくとして、ここでは一点だけ「ゲームの慣習」について書こうと思う。

あとがきによると「ゲームの慣習」とは、フランスの作家であり評論家であるトーマ・ナルスジャックが用いたワードで、提示された手がかりから論理的に真相を導き出すのではなく、作者の企みや推理小説における“お約束(慣習)”から推論することである。

たしかにクリスティは、読者が知識として備蓄している“お約束”データを見透かしたように、さらに捻りを加えサプライズを演出するわけで、天才は天才に違いない。

ただ、あとがきにもあるように“最も疑わしくない人物が犯人”とか、“毒殺なら女性”“俳優・女優が出てきたら一人二役”などの「ゲームの慣習」に従って推論するミステリ(以下ゲームの慣習型)の中には、序盤に提示される謎と結末部の驚愕のラストだけで読めてしまい、中盤の綿密な捜査や証言が無意味なものに感じることもある。(ほらアレですよクリスティの中期のクリスマスの…)

 

では、論理的な解決を軸にしたミステリと、ゲームの慣習型のミステリは、決して相容れないのか。

 

後者が前者に歩み寄ることは不可能かもしれないが、前者は不可能ではないと考えている。

 

本書で言えば、唯一無二のトリックが用いられているとはいえ、目星をつけて犯人まで名指しできるのは、「ゲームの習慣」に則れば中盤、いや経験値が豊富な読者なら、序盤から指摘(だけは)できてしまうかもしれない。

そんな時、私達読者に求められるのが意識の改革だ。真相が半ば見えてしまっても、それを鵜呑みにすることなく、自分がそうだと思った真相へ辿り着くための全て手がかり・伏線を探し、探偵に指摘するまでの制限時間が再設定されたのだと考えるべきだ。

もちろん本作は、それをするだけの価値がある作品だし、結末まで真相がわからなければわからないで、楽しいミステリ経験になること請け合いだ。

 

唯一無二のトリックと劇的な結末については省略する。是非ご自身の目で読んで確かめてほしい。

駄文長文誠に申し訳ないが、そろそろ4000字を超え、短編推理小説一作書けるくらい詰め込んでしまったのでここらで締めたいと思う。

 

4.おわりに

今まで書いてきた、本書を構成する要素以外にも実は見どころが多々ある。

ソーンダイク博士の科学捜査は、100年前とは思えない新鮮さであり、登場する建造物も実在するものがほとんどだ。多少古く感じたとしても、今はインターネットの力を使えば、不明な地名や建物も即座に写真で見ることができる素晴らしい時代だ。

 

クラシックであるからと言って、本書を手に取らない理由は一つもない。むしろ、今、真のクラシック・ミステリを読むことこそ、新しい経験になるに違いない

 

 

では。