僕の猫舎

主に海外ミステリの感想を綴るブログです

伝説のサイト「コッサン」が見れない


※当記事は個人的な解釈に基づいており、特定のコンテンツや個人を貶めるものではございません。

 


コッサンというサイトをご存じだろうか。ご存じでない方のために先に簡単に説明しようと思う。

連載されていた当時から10年近く経ち、当時から一度も目を通していないため記憶に頼るしかないが不正確な部分はご了承いただきたい。たぶん大体はあっていると思う。


たしかあれは、言語能力が低く女性に興味津々な男性コッサンと、「詩織」なる女性に扮しコッサンとメールをするコッサンの同級生のやりとりを赤裸々に綴ったサイトだった。内容はといえば、コッサンの「詩織」に対する過激でセクハラまがいのメールを中心に、コッサン特有の誤字や脱字、独特の表現が管理人「詩織」の巧みな間や表記方法によって面白おかしく記述されていた。

どういう経緯かは忘れたが、高校生の時偶然コッサンを発見した私は、とんでもないサイトを見つけたと大はしゃぎし、同級生にコッサンを広めてまわった。今でも同級生の何人かは「ねこに会ってなかったら、コッサンには出会えなかったありがとう」などと謎の感謝をされるほどだから、当時の私の熱量たるや凄かったのだろう。
   

そんな一大ムーヴメントを引き起こしたサイトだからこそ、そこに集められる賛否両論も凄まじく、否の意見で言えば、障がい者差別だの、詐欺紛いの犯罪行為だのえらい言われようだったと思う。反対意見は(意見と呼べるほどのものかどうかは別として)「勝手に障がい者だと決めつける方が差別です」みたいなもやもやする意見もあって、議論の場は混沌と化し、明確な結論や有益な発言があったという記憶はない。

   

さて、今回何故こんな記事を書こうと思ったのか、はっきりとした理由は無い。

何故コッサンのことを思い出したのかも不明だし、なによりこういったセンシティヴな題材を扱う恐さもある。とはいえ思い出してしまったものはしかたない。自分の考えを整理しながら、ぼんやりでもいい今の気持ちを形にでき次第、もう一度コッサンに会いに行ってみようと思うのだ。

 

 

なぜそんなに躊躇しているのか?さっさと見に行けばいいじゃん。

そうツッコまれればなんとも返し難いのだが、気軽に見に行けないのには名状しがたいモヤモヤとした理由がある。

はたして今の自分はコッサンを見て心から笑えるのか。

そして笑えたなら、それは差別なのかそうでないのか。

差別ならなぜ差別なのか、差別でないならなぜ差別でないのか、自分なりに答えを見つけてからでなければ、胸を張ってコッサンは見れない。

 

 

コッサンが障がい者か否かはあまり問題ではないかもしれない

もうこの際、障がい者や健常者の定義については省略して良いと思う。

コッサンの療育手帳が世間に晒されたわけでもなく、知的な障がいを持っているという証拠はどこにもない(はず)ので、障がい者か否かという問題を掘り下げて話をするのは無意味だ。

 

ただひとつ言えるのは、

人の心を読んだり真意を掴むことを不得手にしている人物に対し、そのハンデを知っていながら身分を騙り相手のミスを誘発させ、それをネットに公開し笑い話にする。

これが、コッサンというサイトのメインコンテンツだということである。

背景にあるかもしれない、コッサンは全て了解済み、とか、「詩織」の奥深い思想とかは全て無視して考えると、かなりアウトな行為にも思える。

 

ただこのように文字に起こしてみて、似たようなテレビ番組を見たことを思い出した。

年端もいかない子どもに対し、ペットが話しかけたり、天使と悪魔の声が囁きかけたりするバラエティ番組だ。彼ら純粋な心を持つ子どもたちは、素直にそれら異常なシチュエーションを信じ、そのまま進行する。ネタバラシがないものも多く、そういったケースでは後日談(あるかないかも不明)など全く紹介されないまま番組は終わる。

視聴者も子どもたちが信じれば驚いて手を叩いて笑うくせに、ネタバレしてあげなければ「可哀そう」と呟くし、一方で騙されなければ「やっぱりね~」とこれまたあっさりとした感想しか抱かない。

 

これと何が違うのだろうか。

疑うことを知らない子どもたちに対し、騙されるかもと可能性を認知していながら偽りのシチュエーションで相手を謀り、その姿を放映して収益を得る。

コッサンと「詩織」との関係となんら違わないのではないか。

監視の対象が子どもか大人か、コッサンが障がいを持っているか否か。これらがコンテンツの是非と関係ないなら、そもそも差別かどうかという議論さえ論外なのかもしれない。

 

あと、これは極論かもしれないが、障がいとはその人の持つ属性または特性の一つにすぎないと考えている。つまり、個人的には目が悪い、とか走るのが遅いとかとほぼ同じだと思っている。

たしかに厳密に言えば、目が完全に見えない人と悪い人というのは、補助具必要の有無など明らかな差があるし、足の速さも、全く歩けない人と比べると同じとは言い難い。

さらに、違うだけだからといってなんでも許されるかと言われるとそうではない。今回のケースでは、コッサンの意思を汲み取る必要があるが、残念ながらその術はない。

 

ここまで、なんでもかんでも、わからない、知らない、知りようがない、術がない、などと言って逃げて来たが、もうこうなってくるとモラルの問題としか言いようがないのだろうか。

モラルという単語に、個人的にはすごく恐怖を感じる。

モラルがあるかどうか、という話が出た時点で(両極の反応が出た時点で)、すでにモラルが無いと言っている側の勝利な気がするのだ。

つまり一つの事象に対し、

A 不快だと思う

B 不快では無い

という二極の意見があった場合、

「不快だと思う、という人がいるので、この事象は不快」となる気がするのだ。

そう決定づけた根拠や理論もなしに、一方の意見を全否定するのは腑に落ちない。コッサンで言えば、「コッサンが可哀相、見ていて不快です」という人がいる時点で、このコンテンツはモラル上良くない。不適切だ。酷い。と決めつけられるなら、それはそれで怖い。

 

 

一方的すぎて恐ろしいインターネットを含むメディアコンテンツ

これはあくまでも仮定なのだが、インターネットという媒体を用いて、発信者の好きなように意図的に選ばれた情報しか伝わってこないコンテンツに対し、それの道徳上の善悪や倫理観の正否を見極め選択するのは不可能に等しい行為じゃないかと思えてきた。

さらに言えば、情報に対する反応や感情も、受け取り手の自由ではないのではないか。発信者の発信の中には、表面上反応を求めるアピールをしていても、実は「どうぞ好きなように受け取ってください」という意思すら無く、ごく一方的にただ純粋に発信するのみで、反応を待ち望む感情が無いものもあるのではないか。

コッサンというサイトが、そこに属するかどうかは自分自身よくわからないが、もしかすると、近いところにはあるのかもしれない。

 

そのような内容物に対して、受け取り手が勝手に白熱してあーだこーだと議論を交わし、踊らされる。発信者にしっかりとした意思がなく、駒の無い盤面だけが用意されているような、無責任で恐ろしいコンテンツ。

いつのまにか受信者が自由に駒を持ち寄って独自のルールで試合を始め混沌と化し炎上する。そんな恐ろしい絵が浮かんだ。

 

まとめ

どうも脈絡のない記事になってしまった気がするが、結論をまとめると

  • コッサンに関する正確な情報が無い以上(想像はできるが)、コンテンツの是非(この場合差別か否か)を決定することが不可能かつ無意味。
  • モラルという物差しで眺めるのが一番だとも思えない。残念ながら良し悪しについて論じる能力が今の自分には無い。
  • 受け取り方は自由、そんな前提さえ全く無いコンテンツがあるかもしれない。ただ一方的に投げかけられ踊らされないよう注意。

 

よく考えてみると、自分なりに結論を出せなかった「逃げ」な気もしてきた…どうにかしてコレ!という結論が見つかれば、と思っていたのだが失敗かもしれない。さらに、「自分」というものがブレまくって、論点がバラついてしまった。これは本当に申し訳ない。

 

もしコッサンを見て何か感じた方、ぼんやりでもいい、同じような思いから何か形作ることができた方は、是非教えてほしい。このモヤモヤをどう表現すればいいか、まだはっきりとわからないでいる。

 

では。