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杉なのに花粉症にならないヒーリングミステリ【感想】『杉の柩』アガサ・クリスティ

 

杉の柩 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

杉の柩 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 


発表年:1940年

作者:アガサ・クリスティ

シリーズ:エルキュール・ポワロ18

 

   さっそくタイトルから何言ってんねん、とツッコみを受けそうですが心から言っています。これは癒されます。

   あらすじは不要でしょう。開始早々法廷を舞台に容疑者として裁かれるエレノアが登場し、彼女の自然な回想という形で時が遡って、事件までの変遷が丁寧に語られます。

 

   ここらでタイトル『杉の柩』の由来なんかを語りたくなってくるのですが、詳細は他のブログにおまかせする(正直よくわからない)として、やはり「癒し」という点を先に書いておきたいと思います。

   まず、ミステリを読んで癒されるなんてことは普通はほとんどないと思われます。結末部の鮮やかな謎解きによって得られる快感や、ハッピーエンディングに到達して感じる充足感を得られることはあっても、心が浄化されるようなヒーリング効果を感じることは滅多にないんじゃないでしょうか。

   しかし、本来はミステリを読んで心が浄化されるのは必然ではないか、とも思ったりするんです。冷酷非道な犯人が捕まり、無実の人間の命が救われ、結果的に死者の魂も救済される。登場人物たちを巻き込んだ悲劇の渦から脱出し、新しく輝かしい人生へと再び歩み出す。そんな過程にカタルシスを感じるのは当然で、必然的に心を安定させるヒーリング効果が期待できるはずです。

   本作ではそんな要素がギュッとつまっており、スギ花粉の攻撃的な性質ではなく、ウッディーでスパイシーなパルファムが堪能できます。ここまでふんわりしたことしか言っていない気がするのでそろそろちゃんと具体例を挙げましょう。

 

1.ウエルマン夫人

   彼女の存在が無ければ、本作の癒し効果は半減していると思います。彼女の人生や思想は、事件が明かされるに比例して徐々に姿形を表してきます。愛に支えられながらも立ちはだかる困難の数々に打ちひしがれ、人生の酸いも甘いも経験した老女の言葉には、重みはもちろん、そんな経験を経ても擦り減らず、より一層慈愛に満ちた美しい心を感じることができます。さらに、彼女の先見の明や心の読み取る力の強さを実感すれば、彼女が登場人物たちに投げかける言葉がただの金言ではなく、ミステリにもしっかり絡んでくる手がかりとなっているのに気付きます。ひとつ彼女の言葉を紹介しましょう。

ほかの人間を激しく慕うってことは、常に喜びよりも悲しみを意味するんだから。でも―そういう経験なしでは、人間一人前じゃない。本当に人を恋したことのない人間は、本当に人生を生きたとは言えないからね。

   正しいかそうじゃないかは別にして、私はこういう自負が大切だと考えています。自分が生きる上で芯になる考えを持っているか、そうじゃないか。誰に何と言われようともブレない何かがあるか。そんな内面の強さをウエルマン夫人から感じました。

 

2.エルキュール・ポワロ

   もちろんシリーズ探偵としての役割をしっかり受け持ちつつ、本作では恋のキューピッド役も完璧にこなしています。別にそれだけでは珍しいことでもないんですが、本作では特にポワロの「死んだ人間のためではなく、生きている人間のために」というスタンスがより強調されているように感じました。

   ポワロの依頼者が死んだパターンじゃないため、被害者への同情や憐れみはほとんどなく、常に生者の為に死者の過去を根掘り葉掘り調査し、真実を突き止めるさまは、これまた生きた読者にとっては少々後ろ暗いところはあるものの、未来を見つめ前進すると言う意味では、心の浄化に一役買っていると言えなくもありません。

 

 

   最後に少しだけプロットから見るミステリ要素についても感想を述べておきます。

   本作では常に容疑者がニュートラルな位置にいるのが特徴だと思っています。通常、本作のような冒頭からは、逆の真相を予想しそうなものです。つまり、容疑者の立ち位置のせいで、始めから真実にあたりを付けることが可能になってしまうという弊害です。それが本作では最初っから最後まで全くありません。全編を通して読者を翻弄し、推理さえコントロールしてしまうクリスティの手腕には舌を巻きます。

   さらに、用いられる仕掛けも、ネズミ取りのような機械仕掛けのあからさまな罠ではなく、ただのちっちゃな小石レベルのものなのだから尚素晴らしいです。素人には全て解き明かせるかどうか怪しい部分もあるのですが、総じてフェアプレイで満足度も高くなります。ロマンス要素も強く(強すぎ)、ガチガチを求める読者には対応していないかもしれませんが、ポワロものには珍しく法廷が多く登場し、解決の演出もシリーズの中では珍しいパターンです。シリーズ未体験の読者でも楽しめる作品だと思います。

 ネタバレを飛ばす

 

 

 

 以下超ネタバレ  

《謎探偵の推理過程》

 本作の楽しみを全て奪う記述があります。未読の方は、必ず本作を読んでからお読みください。

 

 

 

 


   冒頭から緊迫した裁判の風景が見事。

   エレノアの印象は、必ずしも白と言難い。事件の発端となった手紙を思い返すエレノアの描写で「あれ(手紙)」にルビがふられて強調されていた。なぜ?怪しい。

 

   ロディーエレノアの関係も不思議だが、双方の内心がしっかり語られるので、特殊だが好意は抱き合っているのだろう。ロディーに関しては、お金と言う動機も成立しなさそうだし、メアリイを殺す動機もない。ただ、怪しい手紙を燃やしたロディーの行動が気になるところ。

   エレノアに関しては、文句なしに怪しい。彼女が無実だという手がかりが一切出てこない。とはいえ、真犯人の目的がメアリイではなくエレノア殺害だったとすれば、話は変わってくる。改めてロディーが怪しく見えてきた。ただ、彼の行動の詳細があまり語られず、アリバイがあるかのように書かれているのが腑に落ちない。

 

少し事件を整理しておこう。

  1. ウエルマン夫人を早く葬りたかったのは、遺言がメアリイに有利に書き換えられるのを防ぎたかったから→エレノア、ロディーに動機有
  2. メアリイが殺されたのは、ロディーとの仲を裂くため→エレノアに動機有
  3. メアリイが死んだのは事故で、実はエレノアを殺す予定だった→ロディーに動機有 

 

   うーん…全然ピンとこない。間違いなく、最初の手紙を書いた人物が真犯人だとは思うのだが、エレノア、ロディーどちらも書いた可能性がある。

   そういえば、メアリイがウエルマン夫人の隠し子だという伏線があった。となるとエレノアが上位の相続人になるから、結局はエレノアとロディーが怪しい。お手上げ。

 

推理予想

ロデリック・ウエルマン(願望)

結果

敗北

   うわあ…やられた。そうだよね、そりゃそうなるよね。

   実は上には書かなかったのですが、ほんの一瞬犯人はメアリイなんじゃないか、とは思いました。なにかの事故で自分で毒を持ったサンドイッチを食べたんじゃないか、と。でもエレノアもメアリイも、ものすごく善人に見えて疑うことができませんでした。彼女たちの細やかで純朴な心情を丁寧に書いてあるから、彼女たちのどちらかが犯人だとは信じれません(信じたくない)。

   また、エレノア殺害が目的だという可能性が浮上した時点で、もしエレノア殺害が実行されればメアリイが生き残るため、その後起こる事象を想像できなかったのが大きな敗因です。

   伏線もしっかり張られていて、モルヒネのトリックも中々上質です。『スタイルズ荘の怪事件』でも見られたような、クリスティの薬に関する博識ぶりが再び見られる、どこか懐かしい作品でもありました。

 

 

 

 

 

 

ネタバレ終わり 

   これは余談ですが、ロディーとエレノアのロマンスが少し複雑な気がします。ロディー曰く

愛し合ってはいるが、愛しすぎてはいない

この関係がちょっとイメージしにくかったです。

   個人的にはお互いが少し遠慮し合っていたのかな?と思いました。本当は、ロディーもエレノアもお互いに熱烈に求め合いたい願望があって、でも拒否されるのが怖くてよそよそしくなってしまう。理性を失うほど深くは愛していない。だからこそウエルマン夫人には、幸福でない、と見抜かれたのだと思います。

   男女の心移りを作中で多く書いているクリスティですが、本作のロマンスは少し毛色が違うのではないでしょうか。はてさてこれはクリスティの実体験なのか、または身近な知人の境遇だったのか。それとも単純にタイトルの由来にもなっているシェイクスピアの喜劇をモチーフにしたのか。真相はわかりませんが、少なくとも本作にはこのロマンスが必須であり、ロマンス要素がミステリを支えているといっても過言じゃない佳作です。

 

 

では!