推理小説の始祖ポー説に控え目に切り込んでみる

最近推理小説の歴史に関する記事をいくつか目にし、改めて推理小説誕生に関連する歴史そのものに興味が出てきました。

 少し調べてみると『推理小説の歴史はアルキメデスに始まる』なんていう興味津々の本もありました。しかしながら、正直なところあまりに学術的すぎる書籍には食指が動かない(頭が追い付かない)ので、改めて推理小説史について勉強してみようとは思いません。

それこそ、はてなブログには、数々の素晴らしい記事を書かれるブロガーがいらっしゃることだから、これからも勉強させていただきたいところです。

 

ただ、今回の記事を書くにあたり、特に感化された記事がありました。

q52464.hatenablog.com

 個人的に字がギュッとしてる記事は、脳が入ってくる情報量の多さにパンクして拒絶しがちです。しかし、上記ブログは正しく知的なワードの数々で書かれているのでものすごく読み易い。というか読む行為が楽しいです。一つひとつの記事が本のよう、と言えば解り易いでしょうか。

 

話を元に戻して、先ほどの記事の導入部分でなるほどな、と思った記述がありました。

小説群は歴史的関連性を持って順行性にその影響を及ぼしているので、歴史的経緯を知ることはしばしば、古い小説の魅力を増幅させることに繋がるし、また同時に、先行する小説からの影響を後の小説に確認することも、しばしば、その小説の味わいを深めることに繋がる。

だから、推理探偵小説のざっとした歴史を知りたい。

 

なるほど。

これはもうなるほど。

それ以外に言葉がありません。いろいろ自分なりに噛み砕いて説明したいのですが、ちょっと出てきません。

なぜその推理小説が書かれたのか、どういった作品に影響を受けたのか、そんなことを知らなくても良い作品は良いことは事実。ですが、歴史的経緯、時代背景を知れば尚その作品の面白味が増すこともあるはずです。

 

 

歴史的経緯の観点では、やはりその誕生について考えてみるのが一番だろう

ということで、専門書を全く読まずに、自分の知識をフル動員して、妄想を膨らましながら一つの説を書いてみたいと思います。

 

まずは人類最初の殺人に目を向けるべきです。やはり、推理小説に必須とも言える事件、すなわち、そのほとんどを占める殺人事件抜きに話は進みません。

人類史上最初の殺人について思いを巡らしてみると、一つの可能性にぶつかりました。

それが聖書です。

 

旧約聖書の中の第一章である創世記で、まず神は天と地を創造し、アダムとイヴを形造り命を吹き込みます。やがて二人はサタンに唆され、善悪の知識の実を口にし神に背くことによって楽園を追放されます。

 

これに続くエピソードが、アダムとイヴの息子カインによる、弟アベル殺人事件です。

まず作中では、カインのアベル殺害シーンが克明に描写されます。これはある意味、史上初の倒叙作品と言っても過言ではないでしょう。そして、その動機は、アベルに対する嫉妬です。また、カインは、神の追求に対し「私は知りません」とウソまでついています。これは、推理小説の中に登場する犯人たちと同じではないでしょうか。最終的には、目撃者()の証言により犯行は明らかになり、カインは追放されます。

 

なんだ、どこにもミステリの要素はないじゃないか。と感じたでしょうか。

しかし、ことはそう単純ではありません。

先ほど、カインはアベルに対する「嫉妬」から人類最初の殺人を犯したと言いましたが、なぜ嫉妬したのでしょうかか?動機の掘り下げ(つまりホワイダニット)が必要です。

それは、神が、いつもアベルの供物を歓び、カインの供物には目もくれなかったからです。ちなみにアベルは羊、それも群れの中でも一際肥えた(最上級の)ものを、カインは大地の実りである収穫物を供物として捧げたのですが、決して神が肉好きで、ベジタリアンだったからではありません。

二人の心に問題があったのです。

アベルの供物には、神に喜んでもらおうという心からの愛と信仰がありましたが、カインにはそれがありませんでした。それゆえ、神はカインの供物に気を留めず、真の信仰心を持つアベルの供物を歓び、さらにカインの持つ家長の権利までアベルに与えました。

それに気づかないカインは、憤りと憎しみを自身の中で増長させ、アベルを殺すに至ったのです。

つまりこの殺人事件は、悲しき男カインの勘違い(神の真の意図を汲み取れない愚かさ)から起こった殺人であり、決して単純で衝動的な殺人ではありません。

別に好みであれば、神とアベルの不貞がアダムとイヴに露見したから、カインを怒らせてアベルを殺させた神が真の犯人、という説を支持してくれても構いませんが。

※諸説あります。

 

アベル殺人事件がホワイダニットを軸にした史上初の倒叙ミステリと仮定した場合

創世記がモーセの手によって書かれたとされる時代は、紀元前1400年頃とされているので、ポーが『モルグ街の殺人』を書いた3200年以上昔に既にミステリが書かれていたことになります(ならない)。

たぶんこれより昔の説はないでしょう。

そんな歴史的経緯を推察した結果、どこに着地するのかは、自分でもまだ見えていません

 

人類史上初の殺人事件が起こってから幾千年もの時を経て、殺人衝動は増加増長し、その方法や計画、隠ぺいするためのトリックというものも同様に洗練・昇華してきました。一方で、それらを憎み滅する動きも活性化しています。

 

そして二つの両極の要素が混沌と化した世界において、人が自ら作り出したもの、それがであり“法を執行する機関”です。

古代ローマなどでは、軍隊が治安維持の働きをしていたようですが、18世紀~19世紀初頭にかけて、社会の秩序と公共の安全のために組織された集合体“警察”が生まれました。彼らは、法の番人であり、犯罪者を許さず、人々を犯罪者の魔の手から守る英雄となります。

そしていつしか、善良なる市民一人一人にも警察と同じ正義感が生まれ、憤りと憎しみによって生まれた犯罪者に対して、同じように怒り憎む人間が増え、二つの勢力が拮抗したとき、推理・探偵小説というジャンルが確立されたのではないでしょうか。

相対する二つの事象から、運命的かつ必然的に生まれた推理小説。それは決して幻想ではありません。殺人は現実に起こり得る、いや現に世界中で日常的に発生している。だからこそ推理小説は面白い。

 また、推理小説作家たちは、殺人という忌むべき行為に一定の認識を示しながらも、それらを憎み世界に訴える一種の責任感も抱いていたのではないかと思います。

殺人が法を生み、法が推理小説を生む。もしかしたら、作家の意図を裏切り推理小説が新たな殺人を促す、なんて歴史もあるのかもしれません。また、調べてみたいところです。

 

まとめ

間違いなく、推理小説の歴史に思いを馳せる行為は、推理小説自体への興味の保持増進に繋がります。尻すぼみ感が半端じゃありませんが、やはり私は、推理小説が好きなようです(着地)。

 というか別に、今の推理小説のスタイルを確立させたのがポー、という説自体にはそんなに異論ありませんでしたね…

書いてる内にどんどん違う方向に逸れてしまい、大変心苦しいところではございますが、“控え目に”という部分を汲み取って、大目に見ていただければ幸いです。

 

 

*聖書に関する記述は、筆者の憶測のみで書かれており、事実とは大きく異なる場合がございます。

 

 

では!